長谷 明楽

1/3
前へ
/6ページ
次へ

長谷 明楽

 あんな誘いで来るのかどうか分からなかった。でも、十丸からは自分と同じ匂いがした。必然の偶然を信じる、という旅慣れた人間同士が持つ第六感を。だからきっと会えると明楽は信じていた。  出国審査で会ったこと自体すごい偶然だ。まっすぐに自分に向かって歩いてくる姿を見た途端、心臓が跳ねた。スーツを着こなし、髪を上げてすました顔をしている。夜の明かりの元、快楽に溺れ合いながら嗅いだ、部屋を満たす甘い香りが蘇る。記憶に喉が鳴った。  名刺をはさむのが精いっぱいだった。あの場面では会話をしてお互いを知り合う時間もない。だから懐に飛び込んで個人情報を突き出したのだ。向こうの個人情報も丸見えではあったのだが、住所が分かったところで連絡ができるわけではない。  明楽は関空勤務の入国管理官だ。つまり公務員。大型連休を避けて交替で休みを取るようになっている。夏休みに他の人の都合を優先させた分、今年の年末はわがままをきいてもらえた。というより、こんな航空運賃の高騰する時期に旅行に行く同僚は少なかった。  元はといえば数か月前に付き合い始めた恋人と来るつもりだった。それなのに、チケット代の高さに目をつむってでも行きたい、と強請った相手から突然別れを切り出されるとは想像もしていなかった。  クラブで働いていた恋人は、ノリがよくて明るくて休みの日はよく一緒に遊び歩いているうちに付き合っていた。ほとんど笑顔を見せることのない仕事と、気楽で楽しいプライベートに満足していたのに、些細なきっかけでお互いの考え方の違いに気付かされた。きっかけは、相手の部屋で気分が盛り上がって服を脱いだ時だった。 「な、これ使ってみん?」 「何それ?」 「気持ちよくなるやつなんやって。二人分あるから」 「は? もしかしてドラック?」 「えー、そんな大げさなんちゃうで。海外旅行行った人から買ったん。あー、明楽の職場には内緒な」  内緒も何も、もう国内に入っているのなら警察の仕事だ。冗談じゃない。 「止めろ、俺は飲まないし、お前も飲むなよ」  そう言いながらブリスターから錠剤を押し出す手を掴んで止めた。結局「別にええやん」と繰り返す相手からシートをもぎ取って捨てた。笑っていた顔がひどく歪むのを見るのがつらかった。大声での罵り合いになり、「あほ、お前なんかもう知らん。勝手にしさらせ」の捨て台詞とともに元恋人はゴミ箱を蹴り飛ばして出ていった。  旅行自体をキャンセルして新しい相手を探すのもいいが、折角もらった休みがもったいない。フレンドリーな国民性の国だから、一人旅でも寂しくないし、もしかしたらいい出会いがあるかもしれない。前回のように、と思っていた。  先月、出国手続きで、当の本人である田村十丸(とまる)に再会するまでは。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

115人が本棚に入れています
本棚に追加