115人が本棚に入れています
本棚に追加
バーでかかっていた音楽ボリュームが落とされる。ざわめいていた客たちが少しずつ反応して声をおとした。全員が楽しげな表情で、そろそろかというようにお互いに目配せする。アナウンスとともにバーからふるまわれたシャンパンを片手に、スタッフに続いてカウントダウンの大合唱が始まった。カウントワンからの新年の始まりを告げる鐘の音が鳴った瞬間、「Happy new year」がそこらじゅうで連呼された。全員が弾けたように笑顔になり、隣り合った者同士で乾杯をし、ハグをしまくった。
再び音楽がかかり、フロアでは踊り出す人もいる。旅先の気安さか、そのまま離れないカップルも出来上がっていた。
騒ぎがひとしきり落ち着いたところで明楽はホテルの外に出た。亜熱帯とはいえ冬の夜は涼しい位だ。Tシャツの上にシャツを羽織ってにぎやかな道を通り抜けてゆく。道々流行りの歌を合唱しながら歩く子供たち。遠くから嬌声と激しい爆竹の音、明け放したクラブやバーから漏れ出る音楽と喧騒。
こんなに人がいるのに、まだ彼には会っていない。
三十日の朝にここについてから三度立ち寄ったビーチのスタンドバーでは、顔を見せるだけで
グラスが出てくるようになってしまった。仲良くなったバーテンとの会話も楽しい。けれど待ち人は、現れなかった。
約束したわけじゃないから当然だ。帰国までの数日を一人で楽しむ覚悟もある。自分の中で折り合いが付きさえすれば、気に入った相手を探すこともできる。ここはそういう国だった。
なのにやはりあの男に会いたかった。物静かなくせに饒舌な身体を持つ彼の顔が見たかった。
空いた扉の向こうからテンションの高い声が聞こえてくる。観光客の集まるバーだ。中をのぞくと「Hello, come in, join us!」と店の女の子に腕をひかれる。東洋人がいないことを確認して、「I need fresh air now, maybe later」と適当な英語で返したら素直に離してくれた。
海岸に続く道沿いには、観光客向けの土産屋と飲食店、そしてこのリゾート島で働く現地の人たちの家がある。どの建物からも大勢の人の声が聞こえる。誰もが笑い、歌い、きっと酒を飲んで新しい年を祝っている。
ふと風が凪いだ瞬間、明楽は急に自分が一人でいることに身震いした。怖いのでも、寂しいのでもない。なぜ、あの男がここにいないのだろう。
照明のほとんどない新月の浜辺は薄暗かった。入る気もないのに、長く伸びた波の足がビーチサンダルを引っ掛けた明楽の裸足の甲を撫でてゆく。濡れた皮膚に砂がまとい付く感触に顔をしかめ、俯いて足元を見ながら波打ち際から離れようとした。下ばかり向いて歩いていたせいか、目の前に突然真っ黒な看板が現れて思わず大きな声が出た。
「ぅわっ!」
尻もちをついた明楽の目の前に手が伸びてきた。
「Are you fine? あれ?」
その声にハッと顔をあげた。薄明りの中でお互いの顔を認識するまでにコンマ数秒。整えられた眉毛の下の双眸は明楽の記憶の通りくっきりとした輪郭を持っていた。すっと伸びた鼻筋の下には、薄くめくれ上がった唇が優美な曲線を描いている。
「こんばんは」と挨拶をした十丸の手を取って、明楽は立ち上がった。手足についたままの砂の不快感も、尻もちついた気恥ずかしさもどこかに消え去り、明楽は目の前の男に会えた嬉しさで破顔した。
「やっぱり会えた」
「うん、会えると思ってたよ」
「俺も」
行先を確認する必要はない。クスクス笑いながら海岸沿いに今来た道を歩き出す。名前以外ほとんど何も知らないのに、幼馴染や気心の知れた同級生に再会した気分だった。
「明楽、って呼んでいい?」
「いいよ、じゃあ俺も十丸って呼ぶ」
一夜だけの楽しみならば、吐息だけで事足りる。見知らぬ旅人ばかりが行き交う人あの場所でのすれ違いを偶然にしないために、明楽は隣の男の手を離さなかったし、十丸も子供のようにぎゅっと握られた手を振りほどかなかった。
〈いったん終り〉
最初のコメントを投稿しよう!