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BL百人一首企画参加SS
これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき
蝉丸
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「次の方!」
苛立ちを含んだ声にハッと顔をあげた。後ろで小さく舌打ちが聞こえる。聞き覚えのある声だった。まさかな、と思いながら出国審査の台に歩み寄る。そこにいたのは名前こそ知らないけれど、『彼』だった。眉毛を上げたところを見ると向こうも俺を認識したようだ。
差し出したパスポートとホーチミン行きの搭乗券が無造作に掴まれて台の中に消えた。冷たい視線が四年前の写りの悪い写真と今の俺の顔を見比べている。
シルバーのメガネフレームが蛍光灯の無機質な光を跳ね返す。制服を着て澄ました表情をしているけれど、あの時に朗らかな笑い声を立てた肉厚な唇は健在だ。うっかり見とれていると声を出さずに唇が動いた。僕の名前だ。
彼と会ったのは遠く離れた南の島。ビーチ脇のスタンドバーで、同じタイミングでカウンターに手を置いた。こっちが先だ、って子供みたいな競争心に駆られてオーダーを口にしたら、それがまた同じタイミングで同じドリンクで、バーテンに大笑いされた。翌朝帰国する彼の部屋に行ったのは自然な流れだった。
「休暇ですか?」
「いいえ、今回は出張です」
唇の片端が楽し気に上がる。
「よいご旅行を。私は年末にまたあの島に行く予定です」
赤色のパスポートを突き返される。性急に求めたくせに丁寧にベルトを緩めてくれた手だ。明け方のベッドで、窓から入る容赦ない日差しに目を細めたあの一瞬がハレーションを起こしたまま脳裏に焼き付いている。
名前を聞こうかと迷ったが、彼はもう次の人に視線を遣っていた。
自動ドアを抜けて気が付いた。パスポートの間に一枚の名刺を見つけて頬が緩む。初めて知る彼の名前を声に出さずに呟いた。
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企画参加作はここまでです。
次ページから後日譚です。
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