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カウンターのバーテンを一瞥して一番奥のソファ席に座る。何も言わなくても出てくる酒を受け取って、連れが一人来るとだけ伝えた。左腕の時計に目をやる。道に迷わなければそろそろ来る頃だろう。仕切り代わりの大きな水槽越しに、店内の様子を眺める。客の入りは悪くない。羽振りのよさそうな男と、水商売風の若い女との組み合わせが多く目立つ。周辺の成金じみた店よりも、いくらか落ち着いた雰囲気で気に入っていた。
店内に入ってきた一人の男。スーツこそ上等だが幼げな容姿がどうにも目立つ。可愛げの無い子供のようなその顔は、場違いなところに来てしまったと慌てることもなく、淡々と辺りを見渡している。一向にこちらに気づかない姿に痺れを切らして席を立つ。
「鈴木、どこ見てる」
水槽の熱帯魚をぼんやりと見つめる背中に呼び掛ける。
「君のことを探していたんだけど」
反論する男をよそに再び深く腰を下ろす。後ろでその様子を窺っていたバーテンに、強くないものを適当に、と指示を出した。鈴木は酒に興味がない。
「ここ、高橋の店?」
「さあ」
はっきりとしない答えが引っ掛かるようだったが、それ以上は追及してこなかった。どれだけ訊ねても俺が多く語ることはないと学習している。
「携帯ぐらい教えてくれないと不便だ」
拗ねたガキのように口を尖らせて言う。鈴木には連絡先の一切を教えていない。こちらから呼びつける以外に彼が俺に会う手段はない。そのせいで鈴木は、いつ来るかもわからない非通知や見知らぬ番号からの電話を待っている。
わざわざこんな面倒な形をとってまで定期的に会ってやっているというのに、彼が感謝する気配は今のところない。
「何かいい楽しみは見つけたか」
これを聞くために会っているようなものだった。鈴木は首を振って否定する。
「なにも。君が勧めるから競艇には行ってみたけど、僕に賭け事は合わないみたいだ」
鈴木はいつも退屈していた。毎日がつまらないのだと俺に言う。それならばとギャンブルを提案してみたが、どうやら彼にはハマらなかったらしい。酒の楽しみもわからなければ、友人や恋人がいるというような話もしない。その上、彼が求めているのは不健全な刺激だった。
「いっそ初心に帰ってみたらどうだ」
首をかしげる鈴木に、声を潜めて言う。
「女装。好きだったろ」
「…ああ、」
溜息のような声を漏らすと、鈴木は決まりが悪そうに顔をしかめた。
「無理だよ、高校の頃とはわけが違う。それに女装自体はどうも思ってない」
高校時代、学年一成績優良な優等生だった鈴木はその反動からストレスを抱えていたらしい。当時の彼は何を思ったのか、人知れず女装をして放課後を過ごすという奇行で鬱憤を晴らしていた。女装することに興味があったのではなく、誰かにバレるかどうかのスリルがよかったのだと言う。彼なりに犯罪性のないものを考えた結果だったのだろう。異常なまでに悪い刺激を欲する様は病気に近い。それは今でも続いている。
「早く新しい遊びを見つけた方がいい。捕まらない程度のな」
「気をつけるよ」
その後も解決しそうにない彼の相談に、いくつか提案を出してやりながら酒を飲み進めた。鈴木は随分と時間をかけて、ようやく一杯目を飲み干す。やがて、まるで具合でも悪いように俯いて押し黙った。
「酔ったのか」
「いや…」
極端に酒が弱いことはなかったはずだ。ただ単に楽しみ方がわからないだけなんだ、と前に彼は言っていた。
「少し嘘をついた」
「どんな?」
「本当は今でも続けてる」
彼の目つきが段々と変わっていく。瞳孔が光をのみ込んで、うっとりと熱を帯びる。また始まったか、と俺は静かに心の中で呆れる。
「下着、女性物の…」
途切れ途切れに言いながら鈴木は興奮し始めていた。女性物の下着を身につけて一日を過ごしたという話を、まるで生娘が恋心を恥じらうように言う。周りの客に聞こえていなければいいが。他人のふりをするように相槌すら放棄して聞き流す。
「誰もこんな僕を知らないと思うと、たまらなくって」
自らの太股に手を滑らせ吐息を漏らす。朝の満員電車も、君は真面目すぎるところが欠点だと言った上司の言葉も、なにもかもが普段とは違う。たかが下着ひとつでよくそこまで興奮できるものだと感心すらしてしまう。少し間違えれば身を滅ぼすだけの変態行為が、彼にとっては息をするより重要なことだった。
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