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顔馴染みばかりの店内を進む。鍵屋は、いつものように奥のテーブルを一人で陣取っていた。既に食事に手をつけている。待たせたか、と声を掛けると顔を上げた。
「いつもより遅い」
彼にとっては事実を述べたまでで、怒っている様子はない。その手元のグラスを見る。どうやら酒ではなく、炭酸水のようだった。
「珍しいな。飲まないのか?」
「あんたに合わせてやってるだけだ」
そういえば、酒を控えてると言ったばかりだ。危うく破綻してしまうところだった。そっくり同じものを頼みながら彼の向かいに座る。
昼間の愚痴の続きを聞いていると、思い出したように鍵屋が言った。
「最近流行りの知ってるか?惚れた腫れたで愛情に鍵を掛け合うやつ」
恋仲の若者に流行する、新しい鍵の話だった。生涯を添い遂げられるようにと互いの心に鍵を掛けるという。鍵屋は心底面白くなさそうに手にしたフォークを振りながら言った。
「浮かれた馬鹿共が。やれ喧嘩しただの、やれ鍵を失くしただの、最近はそんなのばっかりだ。高度な技術をくだらないことに使いやがって」
「馬鹿共、ね」
世の錠前師は、あらゆるものに鍵をかける術を考えてきた。大切なものを奪われないようにする為の技術を、いつだって人々は求めている。守りたいものは多種多様で、それらに応えられる鍵屋は優秀であるとされた。財産は物に限らず、いつしか感情や記憶、想いにさえも鍵を掛けるようになった。
職人によって新しい鍵の仕組みが生まれる度に、目新しさから流行することも珍しくない。鍵屋にとっては稼ぎ時であるが、それを面白くないとする男もいる。
「お前にもそういう相手ができたら気持ちが分かるんじゃないか?」
言えば鍵屋は顔をしかめて黙り込む。彼はこの手の話題が苦手なようだった。浮ついた話も、下品な冗談にも、決まって拒絶反応を起こした。意地悪で言ったつもりは無かったが、鍵屋はすっかり勢いを失う。
「…あんたは、そういう相手、いるのか」
ぽつりぽつりと、言葉を絞り出す。まるで思春期の少年のようだった。
「どう見ても独り身だろ」
答えれば怪訝そうにこちらを見た。どうだか、と疑い深く言う。
「…そんなことはどうでもいい。俺は人に掛かった鍵を開けるのも得意だって言いたかったんだ」
「なかなか難しいそうだな」
「物よりずっと繊細だからな、壊しでもしたら大変なことになる。だが、俺は腕が良い」
すごいな、と相槌を打つ。ふと、鍵屋の視線がまだこちらに向けられていることに気づく。返事が気に入らなかったのだろうか。慌てて、本当に、と付け足す。
「あんたのそれだって、俺なら外してやれる」
手に持ったままのフォークで無遠慮にこちらを指す。正確には胸の辺りを。
「…お前にそんな話、したことあったか?」
「見れば分かる。あんた最近よく胸を押さえてるな、きついから痛むんだろ」
鍵屋は確信しているようだった。その場しのぎの嘘は通用しそうにない。
「鍵を失くしたのか?俺に相談すればいいものを」
「今まで支障がなかったからな…」
観念し、事実を認める。よく気づいたなと言えば、鍵屋は得意げに鼻を鳴らした。
「痛むってことは、そのままだといつか壊れるぞ」
「鍵が、か?」
「あんたが、だ」
鍵屋の口調がきつくなる。これが単なるお喋りではないという意思表示だった。いつもの傲慢さとはどこか違う。
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