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3
実物を見ないことには判断できないと言うので、一先ずは食事を終えた後、鍵屋の店に連れ立った。あまり気乗りはしなかったが、脅されるように言われると断れない。
カウンターの奥に通され、作業場らしき部屋の明かりが点けられる。それから向き直って鍵屋は腕を組み、じっとこちらの動きを待った。
「見ただけで、それがどういうものか分かるのか?」
「大体はな。何を見ても口外はしないから安心しろよ」
こっちもプロだ、と鍵屋は得意げに言う。こうなると実際にその目で見るまで彼の気は済まないだろう。諦めて上着を脱ぎ、シャツのボタンに手をかける。
「簡単に破られるような鍵ではないと聞いている」
「へえ、そこまで言うなら是非とも見せてもらいたいね」
上から順にボタンを外していく。中程まで開けたところで鍵屋は顔を近づけた。胸の中心、鉄の鍵穴が皮膚に食い込んでいる。一瞬にして彼の表情が強張るのが分かった。
「どうだ」
「…あ、いや、もうすこし待て。いま見ているところだから…」
先程までの威勢が嘘のように、鍵屋はしどろもどろに答える。確かにこの男は一目見れば、それがどういう目的の錠前であるかわかるのだろう。彼のそれは実に正しい反応だった。
「これのことは、貞操帯って呼んでいたな」
「て…」
鍵屋は絶句する。直接的な例えは彼に強い嫌悪感を与えただろう。流行り物とはわけが違う。あまりに倒錯的で、施錠というより緊縛と呼ぶべきだった。卑俗な錠前は他者を想うことも、交わることも許さない。
「一体、どういう考えでこんな物騒なもんをつけるんだ…」
「お前の言うところの、馬鹿共の理由ってやつだ」
「あんたは賢い奴だと思っていたんだが」
「皆、お前のように賢くなれないさ」
ここまでの馬鹿もそういないが。自嘲し笑う。鍵屋は険しい表情のまま、考え込むように視線を落とした。
「確かにこれを開けるとなれば骨が折れそうだ。鍵持った相手はどこで何してる、無責任じゃないか?」
「死んだ。もうどこにもいない」
「…それは、なおさら無責任だな。スペアぐらいは用意しておくべきだ」
初めからその程度の理性があれば、誰もこんな事で苦労はしないだろう。特にこの男の目にはさぞ愚かに映るはずだ。居た堪れなさに、はだけたシャツを押さえる。
「明日休みって言ったな。ちょうどいい、今から準備する」
「もう店じまいだろ?夜も遅い。そんなに急がなくたって…」
「随分のんきだな。俺はさっき言ったはずだぞ」
放っておけば壊れてしまうと鍵屋は言った。心が壊れてしまったら、人はどうなるのだろう。今まで何も困ったことは無かった。胸が痛むことはあれど、病ではなく健康であるには違いなかったし、そもそも身体は人より丈夫なほうだ。このままでいることになんの問題もなかった。自分を拘束するものに、あまりにも慣れてしまったのだろうか。
「ここに座れ」
鍵屋は椅子を引き摺ってくると、目の前に置いた。こちらに決める権利は無いらしい。
「手を後ろに」
「…待て、それはなんだ」
彼が手にしていたのは手錠と呼ばれる類の物だった。他にも輪のついた物が見える。足首にも同じような物を取り付けるつもりだ。
「俺は拷問でも受けるのか?」
「動かれると手元が狂う。ほら、早く」
「じっとしていられるが…」
「人間は錠前と違って勝手に動くだろ。邪魔されたくない」
そこまではっきり言われると何も返せなかった。背中で手錠を嵌められ、足も片方ずつしっかりと固定される。悪趣味だな、と思わず口をつく。あんたがそれを言うのか。鍵屋は正論を振りかざした。全くもってその通りだ。俺が言える立場ではない。
鍵屋は正面に座り込むと、片膝をついた姿勢で錠前と対峙する。まじまじと鍵穴を覗かれるのは妙な気分だった。針金のような細長い器具が差し込まれても痛みは無い。しかし、彼の視線は刺さるように鋭かった。その眼差しの真剣さに思わず引き込まれてしまう。この鍵屋は本当に腕が良いのだろう。普段の傲慢さは虚勢などではない。
冷たい金属が擦れるような微かな感覚。中の仕組みを探られているのが分かる。鍵屋は一体、何を思うのだろう。愚かな客の一人として記憶に刻まれるのか、それとも、難解な錠前に腕が鳴って堪らないのだろうか。どうせなら、彼の探究心や欲求を満たしてやれるほうがいい。
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