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 静けさの中に金属を引っ掻くような音だけが響く。どのくらいこうして座っているだろう。視界に時計の類が無いせいで、時間がどれだけ過ぎたのか分からない。鍵屋の額には汗が滲んでいる。想像はしていたが、やはり苦戦しているのだろう。このまま続けていては夜が明けてしまう。声を掛けようにも、邪魔をするなときつく言われている以上、迂闊に口を開けない。どうにか慎重に言葉を選ぶ。 「…なあ、鍵屋。難しいようなら、また今度にしないか?」 「丁寧にやってるだけだ。万が一があって困るのはあんただぞ」  難しいようなら、は駄目だ。却って煽ってしまった。お願いをするほうが、まだよかっただろうか。早く帰って休みたいとか、明日の用事を思い出してしまった、なんて、その程度のことをこの男は聞き入れるとも思えない。ひとり考えを巡らせる。参ったな、どうしてこんなことになってしまったのだろう。 まさか鍵屋は初めからこれを狙っていたのではないか。酒場に顔を出さなくなったことに文句を言い、こちらから出向くように仕向ける。わざわざ流行りの鍵の話まで聞かせて核心に迫った。彼は珍しく酒も飲まずに備えていたとでもいうのか。 「くっ…」  喉が引き攣り音が鳴る。どこかが痛かったわけではない。鍵屋は一度見上げたかと思うと、さして気にした様子はなく、すぐに作業に戻った。 「や、めろ…」  耳を疑った。今のは間違いなく自分の口から出た言葉だ。慌てて、違うと弁解する。一体何が違うというのだろう。確かに今、己の声で、やめろと言ったのだ。 「やめ、…ああ、違うんだ、くそ、なんだこれ…」 「ただの防衛本能だ。誰でもそうなる、反動みたいなもんだな」  鍵が無くなれば心が無防備になるのだから、身体はそれを拒んで当然だ。鍵屋は淡々と説明をしながらも手を止めない。よくあることなのだろう。少しも意に介さない。 「それ、嫌だ…いやだって、」  閉じようときつく結んだ口が意思とは関係なく声を上げる。  口だけではない。全身が拒絶していた。今にも鍵屋を払い除けようと身体が暴れるが、固定された手足でそれはかなわない。ああ、そうか、このための拘束だったんだな。身体から分離した思考で納得する。鍵屋は、初めからこうなると分かっていたのか。 「今すぐ、やめてくれ、たのむ…手を止めてくれ、なあ、鍵屋」  それなら、口も塞いでおいてほしかった。溢れ出す言葉を押さえようとするのはもう無理だった。せめて意味を持たない呻き声ならよかったのに、どうしてこうも自らの意志であるかのように叫ぶのだろう。幸い、鍵屋は作業に集中しているようだった。こういう状況に慣れているのか、反応すらしない。 「はずさないでくれ…いやだ…離れたく、ない」  気づけば死んだ男の名前を呼んでいた。涙が頬をつたう。拭うこともできず、ただ溢れていく。何が、防衛反応だ。これはどう考えたって、自分自身の言葉じゃないか。嫌だ嫌だと子供のように泣き叫ぶ。離れたくない、失いたくない。俺は生きているんじゃない、まだ死んでいないだけだ。心なんて要らない、騒がしい心ならいっそ壊れてしまえ。俺は、俺は。 「このままでいい、ずっと、死ぬまで」 「悪いけどそれは聞けない。あんたがそう望んでいる」  ずっと口を閉ざしていた鍵屋の声を聞き、安心する自分がいた。俺が望んでいる。一体、何を。自身のことだと言うのに、何ひとつ分からなかった。 金属片が音を立てて床に落ちる。鍵が開き、留め金が外れた。全身の力が抜けるようだった。 「今、手と足を外す」  鍵屋は拘束を解くと、何も言わずにタオルを差し出した。それを見て自分が泣いていたことを思い出す。受け取りながら、ふと視界に入った手首には暴れた痕が赤く残っていた。今までの出来事が現実である証拠だった。まだどこか放心したまま、顔を拭う。言うまでもなく、開錠はうまくいったのだろう。それなのに、鍵屋は意外なほどに静かだった。達成感に酔っているわけでもなければ、自分の腕をひけらかすこともなく、ただ静かに寄り添っていた。 椅子から立ち上がろうとしたが、上手く力が入らずそのま床に崩れ落ちる。   「おい、無理をするなって…」  しばらくは心が揺れ動きやすく、傷つきやすいから気をつけたほうがいい。そう鍵屋の説明を受けながら、拘束を失った身体は寒くもないのにがたがたと震えていた。ああ、と返事をするのがやっとで、床に落ちた鉄の破片を震える指で拾い、握り締めた。 「うまく開錠できたか、確かめておきたい」 「どうやって」 「今までできなかったことをしてみる、とか…」  言いながら彼の目は気まずそうに泳いでいる。できなかったことにいくつか心当たりはあった。それは鍵屋も分かっているらしい。  先程までとは打って変わって自信のない動きで、鍵屋はおずおずと両手を拡げた。それが抱擁の前段階であると辛うじて理解し、軽く身を預けるように距離を詰める。関節が錆びているかのようなぎこちない動きで、どうにか背中に腕がまわった。抱きしめられるのは久しぶりだった。 「…鍵屋、大丈夫か」 「い、いま、俺のことは関係ないだろ!」  耳元でキン、と大声が響いた。こんなことまでさせてしまうのは申し訳ない。しかし、彼の腕の中は妙に心地が良く落ち着いた。 「少し震えが治まってきた」  伝えると、身体が離れ視線が絡む。ゆっくりと顔を近づけた鍵屋の、鼻の頭がぶつかった。唇には、ほとんど触れるかどうかの接触。彼らしくないその行動にただ驚く。 「無理しなくていいんだぞ」 「…してない。このくらい、なんとも…」  鍵屋の鼓動が早鐘のように鳴っているのが分かる。つられてこちらの心臓も共鳴する。剥き出しの心がひりひりと疼いた。  顔を傾けながら、今度はこちらから触れにいく。身体が勝手に求めてそのように動いていた。深く交わり、唇の隙間で鍵屋の悲鳴を飲み込む。何か言おうとするのを全て食べ尽くして、長く長く味わった。ばたばたと胸を叩かれてようやく唇を離す。 「おい!あんたはご無沙汰なだけかもしれないが、俺にとっては…!」 「そうか、悪かった」 「何も問題が無いならいい…」  息を切らし、真っ赤な顔で口ごもる。十分な確認が済んだのか、鍵屋は逃げるように床に散らばる道具を片付け始めた。 「…あんたの身体の調子が悪くなったのっていつからだ」  さて、と考える。この街に越して来てからだろうか。それまでこんなことはなかった。住処を変え、仕事を変え、ようやく慣れてきた頃から、どうにも様子がおかしい。 「一年、いやそれよりは短いな。はっきり痛みが出るようになったのはもっと最近だ」 「それは、決まって俺といる時か?」  何故、と言いかけてやめる。言われてみれば確かにそうだったかもしれない。何かが揺れ動くたびに、そこに食い込むような強い痛みがあった。決まってこの男が近くにいる時だ。 「あんた、俺が、好きなのか」  恐る恐る尋ねるその表情の深刻さに、思わず、感情が零れ落ちる。 「…笑うな」 「いや、はは、悪い。そんなつもりじゃなくてだな」  笑う声を抑えられない。かと思えば、どくどくと心臓が脈打つ。何もかも自制が利かない。 「…ああ、気をつけろってこういうことか」  剥き出しの心に触れられている。忘れていたその刺激があまりに強くて、焼けるようだった。 「そのうち慣れる。あんたは元に戻っただけだ」  元の自分を思い出すのは難しい。しばらくはずっと、この落ち着かない心の扱いに困らされるのだろう。 「もう少しだけ、押さえていてくれないか」 「こう、か?」  律儀に手のひらを胸に重ねる。あまりに純粋で素直な態度に、しまい込んでいた欲が疼きだす。頬を寄せ、耳元で息を吹きかけるように囁いた。 「まだ試してないことが残っているけど、どうしようか」 「なにを、どうするって…」  見る見るうちに赤く染まっていく耳に噛り付きたい衝動を、寸前のところでどうにか堪える。 「本当によくないな、何もかも抑えがきかなくて。忘れてくれ」  ありがとう、と礼を言って彼の身体から離れた。きつく握りしめていた手を開く。外れてしまった枷を見る。指はもう震えていなかった。  それを叩き落とすような勢いで手首が掴まれる。 「俺の頭を悪くした責任は、ちゃんと取ってくれ」  彼にとってはそれが精一杯の抗議だった。不器用なこの男に狂おしいほどに揺さぶられている。笑うな、と癇癪めいた声を上げる鍵屋の頬を愛おしげに撫でた。もうそれ以上、まわりくどい言葉は必要なかった。  窓の外、空は既に白み始めている。
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