1戸棚の鍵は掛からない

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1戸棚の鍵は掛からない

 自分は一体何をしているんだろうな、と思う。呆れはしても、後悔はそれほど感じなかった。代わりに高揚めいたものが胸を満たしていた。本当に、どうかしている。気を紛らわせる為に飲み干した蒸留酒は、喉の奥を焼くだけだった。その感覚は胸の疼きとよく似ていた。 「早いな。仕事もう終わったのか」  鍵屋は物珍しそうに言った。彼より先に酒場に来ているのは珍しい。当然だ。普段とは決定的に違うことがある。 「辞めてきた」  なんだと。鍵屋は前のめりになって声を上げた。守衛の仕事を辞めてきた。つい先程のことだった。 「何でまた」 「まあ、なんというか、少しやらかした」  曖昧に言うとそれだけで察したのだろう。鍵屋は項垂れる。 「さんざん忠告しただろ…」  気をつけろ、ときつく言われていた。それを重く受け止めていなかったところは確かにある。しかし、気をつけたところで防げるはずがない。心の動きなど、全くもって予測ができないのだ。 「相当、鬱憤が溜まっていたんだな。いずれはこうなってただろ」 「そうかな」 「あんたにはあの仕事、合わないと思ってた」  彼に仕事の不満を洩らしたことはない。嫌々勤めているようにでも見えたのだろうか。だとすれば余程自覚がないことになる。悪い職場ではなかったはずなのだが。  店のどこかで酔っ払いがグラスを割った。その音に、必要以上に身構える。神経が過敏になっていた。不意に鍵屋と目が合う。この有り様を見られてしまった。 「騒がしいな。出るぞ」 「いや、平気だ」 「障るだろ。うちで飲み直す」  何に、とは口に出さない。今夜は徹底的に付き合うつもりのようだ。別に、励ましてもらうほど気落ちしているわけでもない。だが、彼の好意を受け取らない理由もなかった。  鍵屋は自身の店で生活をしているようだった。奥の作業場で寝泊まりをしているのだろう。前回ここに来てからまだ日が浅い。あの夜に座らされた椅子が視界に入ると、妙な気分だった。 「この街に来る前は、転々としていたって言ったな」  店のカウンターを酒場代わりにして、鍵屋がグラスに酒を注ぐ。彼の好きな果実酒だった。勧められたグラスを手に取る。  ここに越してくるまでのことはあまり人に話していない。それでも鍵屋は一度聞いたことをよく覚えていた。 「また何処かに行くつもりか」 「どうだろうな」  何処へ行っても長く暮らすことはなかった。執着心がなかったのだと思う。何かが根付こうとする前に離れた。だが、それは今までの話だ。もう鉄の鎧は身につけていない。剥き出しの心を抱えて、この先どうするのだろう。 「俺はこの街が長いから職探しなら力になるぞ。それに、あんたの事情を知っている人間が近くにいたほうがいいに決まってる」  鍵屋は理屈を重視しているようだった。利点を述べた上で、これを断る理由はないだろうと言って聞かせる。それが分からない奴は愚かだ、と言いかねない程に。何かと道理を気にする男なのだと思う。そういうところが嫌いではなかった。 「困りごとはお前に相談すればいいのか」 「ああ、聞いてやる」 「…そうだな。しいて言うなら、近頃はどうにも一人寝が堪える」  ぴたりと鍵屋の身体が硬直する。何か言いたげに開いた口からは、いつまでも言葉が出てこない。 「そんなに難しい顔をするなって。冗談だ」  悪い癖のようなものだ。純情な彼を困らせたいわけではない。ただ、じりじりと焼けつく感覚が纏わりついて離れなかった。発言を取り消しても、鍵屋は険しい表情のまま目を伏せた。 「またあんたを招き入れて、何も考えないほど愚かじゃない」  鍵屋は傾けたグラスの中に語りかける。彼の中にそんな考えがあるとは想像もしなかった。 「…驚いた。お前はそういうことが苦手なのかと」 「俺が潔癖にでも見えるのか」  違うのか、と問い返す。鍵屋は大きくため息をついた。 「惨めになるから、嫌なだけだ」  独り言のように小さく呟く。鍵屋は物事を難しく考える男だった。  グラスを傾け、残りを一気に呷る。彼のその様子を横目でぼんやりと見ていた。酒を飲み干した鍵屋が顔を近づける。かち、と歯がぶつかった。距離感を測りそこねた口づけは初めこそ衝突したものの、その後は穏やかだった。酒が入っているのもあってか、以前ほどの強張りはない。むしろ好意的な触れ方だった。 「気に入ったのか」  問えば小さく頷く。あの夜の口づけは悪くなかった。理由は、それくらいあれば十分だろう。理屈を重んじる彼は、少々難儀な男だった。 「じゃあ、もっとしようか」  誘うように頬を撫でると、鍵屋は再び頷いた。すっかり言葉を忘れてしまったのかのような、その様に舌なめずりをしている己に気づく。よくない傾向だった。  口づけながら身体に手を伸ばす。彼の膝を撫でながら静かに這わせた。そっと欲に触れる。そこは確実に熱を持ち始めていた。鍵屋は飛び跳ねるように慌てて身体を離す。 「みっともない…」  今にも泣き出しそうな声を上げて俯いた。今からそんなことでは困る。腰を抱き寄せ下腹部を押し付けた。昂っているのは彼だけではない。 「あっ…」 「みっともなくって、どうしようもないよな」  腰を僅かに揺らせば、切なげに溜め息が漏れる。 「なあ、鍵屋」 「…それ以上、言うな。こういうことはちゃんとさせておかないといけない」  言葉を遮られ、胸を押し返される。  姿勢を戻して座りなおす。沈黙の中、手持無沙汰にグラスのふちを指でなぞった。息が落ち着くのを待って鍵屋は話し出す。 「あんたはいつだって優しい。だから俺は付け上がる。鍵を外したのだって、本当はあんたの為なんかじゃない」  俺のわがままだ。鍵屋はそう言いきった。 「本当はこんなこと、少しも望んでなかったんじゃないかって」  考え過ぎに効く薬があればな、と思う。そんな物があれば、彼がここまで苦しい想いをせずに済んだだろう。いっそ何も考えられないようにしてやりたかった。浅ましい欲望が牙を剥く。理屈も何もかも取り払って、獣になってしまいたい。できるなら、この男と二人で。 「お前は俺の気持ちをとっくに知っていただろ」 「どれだけ勝手を言っても許すだろう。そういう奴だ、あんたは…」 「自分の見立てが間違ってたっていうのか、鍵屋」  お前は聡い男だろう。言えば、だんまりを決め込む。  このまま彼が納得する答えを出すまで待ってもいい。しかし、朝が来る前には決着をつけたい。もう、この胸の渇きに耐えられなかった。 「いつになったらベッドに誘ってくれるんだ?」  これでも遠回しな表現を心掛けたつもりだ。そんな言葉を使うなと怒るだろうか、恥知らずだと失望するだろうか。手を取られる。袖から手首の赤い痕が覗いた。それは紛れもなく、抵抗してできたものだった。 「わざと、そういうふうに言うのやめろよ」 「悪いな。こういう性分なんだ」 「俺のために悪者になろうとするな」  鍵屋は何もかも見透かした上で、諭すように言った。なんて傲慢な男だろう。いい加減、腹が立っていた。知ったような口を利きやがって。鍵屋、お前は俺がどういう人間かちっとも理解してない。鼓動は早く、心が震えていた。暴れだしそうな胸を強く押さえる。 「…ここが、疼くんだよ。切なくって堪らないんだ。こんな厄介なもの、俺は、二度と思い出したくなかった」  吐き出した恨み言はひどく惨めだった。 「なあ、鍵屋、どうしてくれるんだよ。お前が…」 「俺のせいだ。だけど、あんたのほうにも責任がある」  だから、それで帳消しだ。鍵屋は自分自身にも言い聞かせるように言った。ああ、なんて面倒な男だ。責任の所在を決めることになんの意味がある。いい加減な関係は許さないつもりか。馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだった。 「俺を恨んでいい。俺もあんたを恨む」 「恨まれる覚えがないんだが」 「どこにも行くな。ずっとこの街にいろ、俺が面倒見る」  捲し立てるように言って掻き抱いた。この男のぎこちない抱擁が好きだ。首筋に唇を落として返事をする。  寝室のベッドに傾れ込み、裸になって抱き合った。ひとつ箍が外れると、今までの押し問答が嘘のようだった。鍵屋は夢中になって唇を求め、身体のどこに触れても怯えることはもうない。互いの口の中は同じ酒の味がした。こういうとき、彼は無口だ。時折こちらの顔色を窺うように視線を寄こす。おいで、と手招きをして、寝そべりながら首に腕を回して誘った。鍵屋が恐る恐る身体を預けて覆いかぶさる。 「ほら、わかるだろ」 「ん…」  繋がりに導く。鍵屋の目はどこか熱に浮かされたようにぼんやりとしていた。挿入の圧迫感に息が詰まる。気持ちばかりが急いて、身体を開くのが不十分だった。 「痛いのか」 「すぐに慣れる、大丈夫」  苦痛を顔に出せば彼が傷つくのは目に見えていた。どうにか取り繕って答えても、鍵屋は哀れむような顔をして腰を引く。その過程で、彼の息が震えるのを聞いた。性急な動きで再び押し入ってくる。その苦しさに思わず呻く。蛙を潰したような酷い声だった。ああ、と鍵屋が嘆く。衝動的な腰の動きに、もうどうにもならないと彼の目が訴えていた。ひたすらに息を殺して律動に耐える。これが彼にとって悪い思い出にならないことを祈っていた。肩で息をしながら、やがて身震いする。まるで嗚咽のようだった。 「さいあくだ…こんな、つもりじゃなかったのに…」  彼が俯くと胸に汗が落ちた。すでにどちらの体液かわからない。愛おしげにその頭を撫で、髪を指先で梳く。 「俺のなかで、きもちよくなってくれたね」  言えば鍵屋は唇を噛み締め、償いのつもりか性器に触れた。手のひらで包み込んで快楽を促す。同時に、形を保ったまま繋がっていた場所がうねる。身体の使い方を思い出していた。腰に甘い痺れが走り、熱い息を吐き出す。 「…なに、笑ってるんだよ」 「若い、なあ、って…」  そんなに変わらないだろう、と鍵屋が口を尖らせた。もう一度吐いた息に掠れた声が混じる。 「そこ、もう、触らなくていい」 「ん、どうして」 「もたない、から…」  指が離れていく。視線が絡むのが合図のようだった。緩やかに始まって、互いの呼吸が重なる。きもちがいい、と知らず知らずのうちに声が出ていた。波が引いては再び打ち寄せるのを繰り返す。行き来するたび大きくなっていくようだった。閉じることを忘れた口からは言葉にならない声だけが溢れる。泣いているようで、笑っているような、どちらともつかない。鍵屋の視線は鋭く、何一つ見逃すまいとしていた。重なった腹の間で性器が揺れている。行き場のない熱がぐずぐずと溜まっていく。 「…もう、もうだめだ、鍵屋、あっ…ああ…」  激しい動きにベッドが悲鳴を上げている。大きな快楽の予兆に全身が強張った。縋るみたいに彼を呼ぶ。それが、あの夜の出来事と重なる。鍵屋はその鋭い目で全てを暴こうとして、俺は身体のあちこちがいうことを聞かなくなった。終わりがもうそこまで来ている。両手の指と指が絡む。きつく握り合って高まっていく。 「はっ…」  大きく仰け反って身体が跳ねる。膝を痙攣させながら、生温かさが腹を汚すのがわかった。鍵屋は腰を何度か打ち付けて二度目の絶頂に身を震わせる。やがて、胸にずしりと重さがのしかかった。荒く息をしながら、全身の力が抜けていく。耳鳴りのような快楽の中、彼が何か言うのを聞いた。短い単語か、あるいは名前を呼んだのかもしれない。
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