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1鉄の帯
鍵屋を呼んでくれ、と頼まれる事は珍しくない。大抵の場合、新たに鍵を取り付ける為か、紛失した鍵の解錠か、そのどちらかだ。今回の場合は両方だった。そのことを伝えると電話口からはひどく不機嫌な声がした。
程なく鍵屋はトランクを引き摺るようにして現れた。彼のために門扉を開く。
「あんたの雇い主はどうなってんだ」
「心配で夜も眠れないそうだ。それ、運ぼうか」
頼む、と手渡されたトランクを持ち上げる。鍵屋はそれをじっと見つめるなり、溜め息をついた。憂鬱なのだろう。
心配性な館の主人は鍵をかけることに執着していた。いつも膨大な鍵の付いた束を持ち歩いている。その弊害か、鍵を失くすことも多かった。
「盗られるような物があるとは思えないけどな」
「まあ、そう言うな。俺達に仕事があるのはありがたい」
実際のところ、今まで鼠一匹でもこの館に忍び込まれたことはない。事が起こらないように用心しているのだから、当然といえば当然だった。何か大事な物を所持しているらしいが、詳しいことは警備をする身であっても知らされていなかった。物の価値など、価値の分かるものにしか理解できないだろう。鍵屋を玄関まで案内し、愛想良くな、と念を押す。うんざりしたように気怠げな挨拶をしながら、彼は館の中へ入って行った。それを見届けて再び持ち場に戻る。今日も、問題は無い。鍵屋と違って、無意味と思えるような事も繰り返しのような日々も、それほど苦痛ではなかった。おそらく自分はこうやって生きていくのだろうと思う。鍵屋、あの男は自信家だからな。きっと、退屈には耐えられないだろう。ぼんやりとそんなことを考えていると、何故だか少しだけ胸が苦しかった。
一時間ほど経って、鍵屋は再び来た時と同じくトランクを引き摺りながら戻ってきた。そばまで来ると、地面に下ろしてその上に座った。休憩を取るつもりらしい。
「やってられん」
「お前にしては随分かかったな」
「簡単に開くと難癖つけられるからな。態ともったいぶってやるんだ」
あんたも立っていただけの門番に金払わないって言われたら困るだろ、と鍵屋が例え話をする。何もないに越したことはないのだが、そうならないことを祈るばかりだ。
「守衛も錠前も、そこにいる事に意味があるんじゃないか」
「抑止力か。俺にはあって無いようなもんだが」
鍵屋は、特に鍵開けを得意としているらしい。自分以上の腕の者はいないと豪語するほどだ。彼にとっては今日のような仕事は何のやりがいも無いのだという。取り付けさせられた鍵を、数日後には失くしたからと取り換えさせられ、しまいには心配だと鍵を増やされ。鍵屋の不満は募るばかりだった。守衛のこちらに何かと同意を求めてくる。すっかり宥めてやる癖がついてしまった。
「最近、あんた顔出さないな。ひとりで飯を食うのも退屈だ」
不満げに鍵屋が言う。近くの酒場は毎晩同じ顔ばかりが集まり、鍵屋もそのうちの一人だった。寂れた外観とは裏腹に料理の腕はよく、晩飯を済ませるのにちょうど良い店で、同じような考えの者がよく集まる。通っているうちに殆どの客の顔を覚えてしまう。
「調子悪くてな。酒を控えてる」
「どっか悪いのか?」
「単に年取ったってだけの話だよ。鍵屋、お前もそのうち分かる」
嘘をついたつもりはないが、どこか言い訳のようになってしまう。身体の具合が優れないのは事実だ。しかし、どうにも心地が悪い。
「…そうだ、今日はお前も災難だったからな。奢ってやろう」
罪悪感を誤魔化すように取り繕う。途端に締め付けるような胸の痛みを覚える。良くないのは分かりきっていた。
「具合はいいのかよ」
「明日は休みだから多少はな」
ふうん、と鍵屋は息をついた。それから、悪くないな、と一言。胸の痛みは無視をした。
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