1おやすみイマジナリー

1/1
前へ
/7ページ
次へ

1おやすみイマジナリー

 千田が住むアパートの前を通った。あれからずっと気まずくて、一度も高台には行っていない。偶然家の前を通りかかったなんていうのは嘘で、本当は千田を見かけたら映画に誘おうと考えていた。彼の好きなアクション映画の公開日が迫っている。以前から千田は最新作を心待ちにしているようだった。  別に喧嘩をしたわけでもないけれど、冷たいことを言ってしまった分は千田との関係を取り戻したかった。  しかし、そんな都合の良い期待はすぐに打ち砕かれる。千田が大事にしていたベランダの鉢植えが無い。僕はその時点で、もう何もかも取返しがつかないような気がしていた。  見知ったアパートの一室には、既に違う人が住んでいた。知らない大人が、通い慣れた部屋に入っていくのを見た。僕らだけの秘密基地に、当たり前のような顔をして見知らぬ誰かが住んでいる。虚構と現実の間で僕は眩暈を起こした。  普通の大人なら、引っ越すことぐらいあるのだろう。むしろ今まで変わらず住んでいたのが長すぎたくらいだ。なんらおかしいことはない。それを顔見知りの子供に伝える義理なんて無くて当然だ。映画好きの宇宙人なんて、この世界には存在しないのだから。そう自分に言い聞かせることでどうにか立っていられた。  彼について、僕が知っていることはあまりにも少なかった。連絡先も、勤め先も、出身も、詳しい事は何も知らない。そういうものを必要としなくても、会って話すことが当たり前だった。もう千田はここにはいない。あの時のことがきっかけになった、なんて考えるのは流石に傲慢だろう。幼い頃の幻想が本来の形に正されただけなのだ。  僕は逃げてきたのだろうか。勉強のことも、将来のことも、考えたくなくてここに来ただけじゃないのか。普段よりも遠回りの帰り道を足早に行く。もうきっとこの道を通ることもないのだろう。  明かりのついていないリビングを見ても、今では何の感情も湧いてこない。両親は僕が幼いころよりも忙しくなった。それを寂しいと思えるほど、もう子供ではない。静まり返った部屋でテレビだけが喋りだす。見たいものがあるわけでもないけれど、静かすぎる部屋にはそのほうが良かった。夕方のニュースを聞き流しながら参考書を捲る。形だけでも何かしていないと千田のことを考えてしまいそうだった。  ふと、画面の中の”謎の物体が飛来か”という見出しが目に入った。テレビに視線を定めると、住宅地でゼリー状の物体が次々と発見されたという話題を取り上げていた。庭先や畑、学校のグラウンド。あるいは屋根の上で見つかったゼリーのような透明の物体。原因は明らかになっていないらしい。空から降ってきたのでは、とインタビューに答える住人。  そんなことがあるものか。僕は心の中で思う。何かしらの自然現象か、そうでなければ誰かの悪戯だ。もうこんなニュースで胸を高鳴らせることはなかった。  空から降る大量の魚、赤い雨、奇妙な隕石。世界中の事例を取り上げ、まだまだ世の中には不思議な事があるものですね、とキャスターが言う。 「宇宙人の仕業かもしれませんね」  その一言に胸の奥が苦しくなった。かつてはこんな話題に胸を躍らせていたのだろう。テレビの電源を消すと室内に静寂が下りる。無性に耐え切れなくなって、気づけば外に飛び出していた。今度こそ、逃げ出したかったのかもしれない。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加