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蛇の夜(2)
うずくまっていた少年は、やがてゆっくり立ち上がると、力ない足取りで森の中に入っていった。
木々の間をふらふらと、時々木の根に足を取られながら抜けていき、やがて小さく拓けた場所に建てられた小屋にたどりついた。
今は閉じられた灯取りの窓の隙間から、ほんのわずかに光が漏れ出ている。短い煙突から細く白い煙が立ち昇っている。少年はその光を、煙を見て安堵した。
小屋の中は薪が焚かれ、暖かかった。暖炉の傍らにあぐらをかいて座る老人がいた。
灰褐色の長衣をまとい、銀色の髪も髭も長く伸びて床に届いている。暖炉の灯が老人の上で揺らめくと、その顔に深く刻まれた皺が浮き彫りになった。
老人は草木を思わせる静かさで座っていて、少年が帰ってきても、指先ひとつ動かさずにいた。
少年は老人の側におなじようにあぐらをかいて座った。暖炉の灯が少年の顔を橙色に照らした。老人も少年も、ずっと押し黙っていた。やがて少年が口を開きかけたが、すぐに噤んでしまった。
「湯が沸いたな」
老人は難儀そうに腰をあげると、少年が代わろうとするのを手で制してかまどに立ち、木をくりぬいて作ったカップをふたつ手にして戻ってきた。
差し出されたカップを両手で包むようにして受け取ると、木の肌を通して熱がやわらかく伝わってくる。カモミールのいい香りがするお茶を少年はゆっくりと飲んだ。
「月食の時、光に包まれて空に昇っていくような気がしました……あれが魔力の顕現ですか」
お茶を飲み干して、息をつくと少年が訊いた。
「一時の姿に過ぎんよ。場所によっても、おまえが誰かによっても変わる」
頷きながら、なんでもないことのように老人は言った。通り雨が降った、程のことのように。
「それに……」
少年はあの衝撃と轟音を思い出しながら言った。思い出すだけで気持ちが押し潰され、体の奥底が冷たく震えるようだった。
「とうとう……やりおった」
老人が少年に先んじて言った。少年は自分の師が、自分と同じものを感じ取っていたことに気づいた。
「あれは何だったのですか」
「結界心柱が破壊された」
「王都の地下にあるという心柱のことですか……? わかるのですか?」
老人は淡々とうなずいた。
「結界が解放された。すぐに結界のすべてが失われるわけではないが……」
「誰が、何故?」
「魔導士だ。非常に強力な力を持つ者だ」
老人はためらうように言葉を切り、少し苦しげに息を吐いた
「しかし誰が、ということは今は問題ではない。問題は結界を解放いた力が、恨みと憎しみであった、ということだ」
それが理由だ、と老人が付け加えると、少年は口を引き結んで老人をまっすぐ見据えた。と、老人が激しく咳き込みだした。
「大丈夫ですか、先生」
少年が近寄って背中をさすろうとするのを、老人は手のひらを見せて止めた。
「王都と心柱を守ろうとする多くの命が奪われたであろう。人は復讐を選ばざるを得ない。人と魔導士が争う時が来たのやもしれん」
「結界が解放されたのであれば、魔導士にとって不利益はないはず」
老人のまなざしが鋭くなる。少年は自分の軽率さに気付いて怯んだ。
「おまえはわしの元で何を学んだのか」
掠れた老魔導士の声は、しかし固い岩石のように向かってきた。
少年は逃げ出すように視線を逸らすと、手に持ったカップに目を落とした。カップはもう冷たくなっていた。
「魔導士は孤独を運命られているものだ。テオ、おまえは大丈夫だろうか」
名を呼ばれて少年は顔を上げ、老人を見つめた。
「孤独が魔導士を導く。人はひとりで生きていけても孤独には勝てん、ゆえに破滅する。魔導士は孤独を糧にするのだ。それができなければ人のように破滅するしかない。おまえは試されるだろう」
少し喋りすぎた、と老人は呟くように言い、また背中を丸めて強く咳き込むと、自分のベッドまで行って横たわった。
老人がベッドに横たわると、その周囲がふと暗くなって老人の姿は見えなくなった。
少年はずっとその場に座り続けていた。重すぎる刑を宣告されたように、すこしうなだれて。
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