蛇の夜(1)

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蛇の夜(1)

 星をめぐる大蛇(おおへび)は、真冬の天蓋を渡りくると、冷たく光る月に喰らいついた。  深い森の奥、木々がひらけた場所で、ゆっくりと欠けはじめた月を少年は凍りついた息で見あげていた。視界の周縁に絡みつく枯れた枝の暗い影が、天蓋に入った(ひび)を思わせた。  耳がじんとしびれても、殊更に寒いとは感じなかった。冬至の夜に蛇座で起こる月食は、数十年に一度、それも百年に近い単位でしか起こらない。  少年は月食が引き起こすはずの出来事を待っていた。じっと息を詰めていると、自分の鼓動が高まっていくのがわかった。  月光がしだいに衰えていき、黝然(ゆうぜん)とした空が銀砂を撒き散らしたようにきらめきはじめると、地上の闇は更に深くなる。  月が細く弓形に光る部分を残すのみとなった時、足下の冷たい土が、闇に埋もれた木々がかすかにざわめいたような気がした。  そして影が月を覆いつくして、最後の光が失われた瞬間、月は緋色に染まり少年は瞠目した。 ——月が血に塗れている‥‥。  その時、少年は足元から風が吹き上がってくるような感覚を覚えた。地面からなにかが湧き上がっている。全身が総毛立つ。少年はその時が来たことを悟った。  空から見えない力で引っぱり上げられている、浮揚していく感覚があった。  そして少年は、地面の下から小さな光の玉がひとつ、浮かび上がってくるのを見た。  光球は気泡が水中から浮かび上がるように現れて、地面をぼんやりとまるく照らしながらそのまま大気中に舞い上がり、ふわふわとした軌道で空に昇っていった。  ひとつ、そしてまたひとつ。光球は次々と地面の下から浮かびあがってきた。気がつけばそれは木々の枝からも、枯れた草々からも現れていた。  少年はいつか夏に川べりで見た蛍の群れを思い出していた。あの時のように、光はその場にとどまりはしなかったけれど。    少年の足の下からも光球は現れ、彼の体をふわりとすりぬけて空に昇っていった。  闇に沈んで一歩先さえ不確かだった地面が茫と光を放っている。光球はすでに夥しい数に及び、境界を失ってひとつになっていた。    発光する森の中で、少年は光に包みこまれていた。  不思議とまぶしさを感じなかった。闇を押し返すように光はふくらみ続けて、森を覆い尽くしていく。  ゆっくりと空に向かっていた光が膨張を止めた。次の瞬間、光は奔流となって空に向けて突き上がっていった。  少年のまだ未熟な体は、光の束に持ち上げられ宙に浮かび上がった。    少年は自分の手をかざし見た。そこに手があるはずなのに、光の中に溶けて何も見えなかった。 ——死ぬのか………?  それだけ思うと、あとはもう何も考えられず、自分がどうなるのかさえ気にならなくなった。それでいいような気がした。 *****  どれだけの時間、光の中にいたのかわからない。我に返ると少年は、元の森に立ち尽くしていた。あたりは暗く、裸の木々が闇に群れていた。  見上げると、空には月が戻ってきていた。月の下端を雲がたなびていく。少年は深く息をついて、すべてが終わったことを知った。  その時、大気中を鋭い衝撃が走り、少年をつらぬいた。  大気が張り裂けたようだった。それは今までに感じたことのない、強い感覚だった。衝撃が走り抜けたあとも、大気は震え、張りつめていた。少年はあたりを見渡したが、そこには闇以外のなにもなかった。 ——なんだ、これは?  少年は汗をかいていた。汗はたちまち氷のように冷えた。のどが渇き、舌がひりひりした。  誰かに、たくさんの目に見られているような気がした。心臓の鼓動が速くなり、足が震えた。大気が重量をもち、あらゆる方向から自分を押し潰そうとしているようだった。  耳の奥から山鳴りのような音が聞こえてくる。はじめはごく小さく、しかしすぐに轟音となって耳を圧した。少年は気付いた。それは人の叫喚のかたまりだった。  叫喚に混ざって、大地が割れるような、あるいは巨大な建造物が崩れ落ちるような音がした。混乱していながら、とりかえしのつかない出来事が起こっているのはわかった。 「やめてくれ!」  少年は耐え切れなくなって、その場にうずくまってあらんかぎりの声で叫んだ。しかし耳の中で鳴り響く轟音に遮られて自分の声さえ聞こえなかった。  その瞬間、緊張は最大限に達し、ふたたび大気が爆発したかのような衝撃が起こった。  そして完全な静寂が訪れた。
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