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 彼女はお兄さんと二人兄妹だったが、小学校のころ亡くなったと思う。どんな病気だったか知らないけど。それ以来彼女は一人っ子だ。別に兄の死について寂しいとか、つらい様子はまるで見なかったし、お兄さんに会ったこともないので、気にしなかった。  土曜の昼過ぎにお邪魔した彼女の家は、新築に引っ越して、六畳の部屋を自由に使っていた。白と黒のモノトーンが、なぜだか思春期には流行るもので、それに揃われていて、ひどく暗い部屋だと思った。確かに、クールな印象ではあるが、正直「葬式じゃん」と思った。絶対に口にしなかったが。  彼女が笑顔で得意そうに毛糸と針を見せてくれた。  黒の、モヘヤ。しかも、5号針推奨糸  言葉は出なかった。たぶん、毛糸一個、500円ぐらいすると思う。  更にいけなかったのは、何を作るか聞いてなかったことだ。糸は1っこだけしかなかった。 「今更だけど、何を編むの?」  本当にいまさらで申し訳なかった。これでマフラーなどと言ってきた日にゃ、一個で足りるわけないし、ましてやモヘヤなんて、……そもそもこの人はどこまで編めるのか?  彼女は笑顔で「マフラー」と答えた。しかも当時、なぜだか流行っていたマフラーが、 「首に二重巻いて、相手も二重に負けるほどの長さ」  と来たもんだ。 「一度でも、やったことある?」 「なーい」  でしょうね。さもなければ、そんな長さのマフラーをモヘヤなんぞで編もうとはしないわな。仕事や収入でなければ何でそんな苦痛を自らに強いる必要があるんだ?  何の修行だ? と思えるような難行だ。 「それでね、よくあるじゃない、こう、三つ編みみたいな模様、あれ入れたい」  あたしは呼吸が苦しくなった。それだけははっきり覚えている。息、しにくい。それは、どう言ったら断れるだろうか? 相手を傷つけずに言う方法を必死に探していたのだ。 「難しい?」  難しくはない。比較的簡単だ。だけども、それは、なぜこういう模様ができ、こういう模様をするためにどうすればいいか解っているから簡単であって、そもそも、編んだこともない人間に、作業できるのだろうか? 「ねぇ、並太の糸持ってきてるから、これでひとまず練習してからにしない?」  と言ったが、クリスマスにプレゼントしたいと言い出した。  誰に? と聞くまでもない。 「好きな人ができた。同じクラスのかまっちぃ」  子供が付けるあだ名というのは残酷なものが多い。確か、鎌田という名字だから、かまっちじなのだが、それがおかまを連想させいじめられ、中学デビューしてしまったやつだ。  あぁ、そうかい。と思った。まぁ、きっかけはどうであれ、編み物を好きになってくれるなら手伝う。だが、練習なしの一発本番で、モヘヤを編むという勇気は私にはない。  今現状でも、モヘヤなんて面倒で、肩の凝る糸で作りたいとは思わない。作ったところで、それのメンテナンスが面倒なものは、作った後も嫌な気しかしない。依頼されて作ったことはあるが、作っていても楽しくはない。モヘヤ独特のふわっとした風合いを出す編み方ができないのだ。手が強すぎるのだと思うが、弱すぎるとたるんで見える。強すぎると細糸でしかない。難しい糸なのだ。  それを初心者が、練習なしでする……。そうかぁ。としか言えない。  11月の中頃、ほぼほぼ一カ月しかないのだ。初心者が作るのだから、このくらい時間がいるのだろうと思ったんだろう。確かに、その当時の私が、集中しても一週間ほどで出来上がるだろうが、彼女ならひと月はかかるかもしれない。そのうえで、縄編み模様を入れるというのか? 一か月で完成できるだろうか? 不安ででしかなかった。  とりあえず、最初の目を作る方法から教える。いわゆる、手で作る作り目というやつなのだが、これも、見て覚えたらすぐにできる。だが、説明だけ聞いても、よく解らないだろう。  一応、教えるように並太の糸と、12号針を持って行ってた。大きいほうが説明をするのに解りやすいからだと思って。  だけども、初心者の彼女が、作り目を作ることを覚えれるわけもなく、結局私が作る。 「とりあえず20目ぐらい作って、」 といった私に、幅は、二つ折りにしたいと言い出し、 「折って、このくらい(15センチぐらい)」 と手で見せてくれた。  はぁ? 何言ってんの? そんなの……。  と思っている私を無視して、もっと広く欲しいという。  結局、50目くらい作ったんじゃないかな? マフラーで50目って、ストールですか? ショールですか? ってぐらいの幅。そして、そんだけ目で取れば、モヘヤの糸玉が十分に小さくなる。 「マフラーに足りる?」  と聞くので、正直、どのくらいいるか解らない。と答えた。 「普通のマフラーでも、5玉ぐらいは欲しいかな。でも、あなたが言うような幅で、長さでとなると、私も編んだことがないから、どのくらいいるのか解らない」  と答えた。  だけど、彼女は現状で編むと言い、今日塾があるので、5玉追加で買ってくるといった。とにかく、編み方を教えてくれというので、今度は編むのだが―  棒針の編み方の説明。  左手に編まれる方。つまり、最初なのでたくさん糸が絡まっている方。右手に何もない棒を持つ。  ここで、編み方を考える。フランス編みか、アメリカ編みか。たぶん、初心者にはアメリカ編みがいいだろう。フランス編みの裏編みなんか、たぶん、いや、絶対に無理だろう。だから、アメリカ編みを教えたら、 「中谷さん(クラスの編み物している女子ですが、何か?)とは違う編み方じゃない?」  と聞く。どうも、中谷さんのようなフランス編みをしたかったようで、じゃぁとそちらを教えると、やはり解るわけもなく、最初のにするといった。  はい……。じゃぁ、編むね。右の棒を、左にある一目の輪に入れて、糸を外からかけて、穴を通して抜く。……以上。  そう、入れて掛けて抜く。それだけなのだ。何も難しくはないのだ。  だけど、それができない。  穴に入れる方向を何度言っても解らなくなるし、糸は外からかける。と言っても、外が理解できなくなる。糸を引っかけた棒を抜く作業がこれまた大変で、棒は棒なので、糸がすり落ちてしまう。  黙ってもできるようになるまでに三時間かかった。結果、一段目をようやく編み終えたぐらいだった。  一段編んで彼女が言った。 「全然、進んでないじゃん」  あー、棒針ってね、この棒針分の高さしか編めないんだよぉ。5号針なんて細いじゃん、3.6ミリぐらいしかないんだから、1センチの高さ編むのに、せめて3から4段編まないと無理だよねー。  しかも、モヘヤはふわっとしている割に、糸は細いので、思っていたほど進まない糸なのだよ。  初心者なんだから、せめて並糸、下手すりゃ、これ、紐じゃね? って思うほど太い糸でざっくり編んだほうがいいのじゃないか? と本当に思ったけど、彼女はその糸が気に入ったから、これでやると言い切った。そういう根性は立派だと思った。 「だったら、せめて幅をこの半分にしない? これはさすがに広すぎるし、編むの大変だと思う」  と説得し、30目にした。  作り目を作り、一段目を編み、裏編みを教えるのだが、これが更に困難だったようで、 「(輪になって居る)糸の手前を、向こうから針を入れて、糸をかけて、抜く」  ということがどうしてもできないという。しかも 「なんで、これしなきゃいけないの?」 という。  いやいや……。で、口で説明するより、と、10目ほど作り、サクサクと編み、五段ほどで縄編み模様を入れる。 「この網目模様の両端を裏編みにすることで、この編み模様が引き立つ。影になるからね。  それに、こういう模様を編むために、表は表メリアスで編み続け、裏は裏メリアスで編まなきゃいけない。じゃないとこういう模様にはならない」  だけど、いくら彼女が頑張っても、一時間頑張っても、裏編みが編めない。 「どうしたらいい?」 「縄編み辞める?」  彼女の苦渋の選択だと解った。  しかも、縄編みは説明すれば、裏目を編み、手前数目を別の針(縄編みようの針がある。いろんな形があるけど、私は「ひ」の形をしたものを使用している。無くすと、「ひはどこ行った?」と探している)にいったん編まずに移動させ、前に倒すか、後ろに倒すかによって模様の左右が変わってくる。  避けた目の次の目を先に数目編む。この時、避けた糸を前に倒せば、この編む糸は同数か、もしくはそれより少ない時がある。後ろに倒した場合は、同数あるいは、それより多くなる時がある。それは模様によって変わるので、いろいろだ。  でもこの時は、ほどいい数として、3目3目にしたと思う。本当はもっと多いほうがいいのだ。だって、30目あるのだから、そのうちの6目って、少なすぎるのだから。まぁ、見た目がしょぼく見えたのか、彼女がその目数を増やしてくれという。  色々大変だと説明したが、彼女はやるといった。  ちなみに、これは、私が手本用に編んでいた、並太の、ベージュ糸で、縄編みの練習をしたのだが、練習で10ほどしか作ってないのでと納得させ、3目3目で縄編みを教えた。一番わかりやすい、別針の糸を手前に倒す方法。  ひの字の10センチもない針は、両端は細くとがっている。鋭利ではないが、刺すと痛い。よく、よそ見して手を刺して痛がる。  ひのその膨らんでいる部分に、避けた糸を集めておけば、段差で動かない仕組みになって居る。だけど、どうしても、 「入れて、かけて、抜く」  と呪文を唱えている彼女に、別針に糸を取っているという「二つのことを同時にする余裕はなく」床にからんと落ちる音がする。  すぐに糸目を拾えば、針が落ちることなどよくあることなので気にしないが、彼女の糸は、黒いモヘヤだ。私には、落ちた目を拾う自信がなかった。  そして、縄編みを4目まで(避けた糸の次を三目、避けた糸を戻し、一目)編んだところで、 「模様はあきらめる。この裏も編みたくない」 といった。  裏を編まずにする方法はある。そもそもそれを先に教えたのだ。これならば簡単だからと。だけど、嫌だというから。  昼過ぎだったのに、すっかり日が落ちてきている。 「とりあえず今日は疲れたんで、また明日ね。塾の用意するから」  と追い出された。  私はため息をついた。  途方もない長さになるのに、5玉で足りるわけないのに。……いや、その前に飽きてくれることを願ってみる。
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