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「モデルを辞めてくれないかしら」
私は、ある画家のモデルのバイトをしている。
画家のギャラリーにいたところを、初老の女性に呼び止められた。モデルのことで話があるからと、喫茶店に入った後、モデルをやめて欲しいと話を切り出されたのだ。
モデルのバイトというのも、裸になりずっと同じポーズでベットに横たわっているだけ。動かないのに時給はなかなか良い。
私は、モデルを辞める気などそうそうなかった。すこしの沈黙の後、静かに話し始める。
「どうしてでしょうか」
「若い子が、あんなおじいさんに裸を見せるなんて、健全じゃないでしょう」
「芸術に健全も不健全もないんじゃないですか?」
「……不健全よ。男と、女なんだから」
「私が、先生のこと男としてみていると?」
私と先生は、一回り、ふた回り以上年齢が違う。クスリと笑って見せると、初老の女性は見るからに顔をムッとさせた。私と女性しかいない喫茶店で、冷たい声がツンと容赦なく響く。喫茶店に流れる柔らかな音楽でさえ、その冷たさを中和できなかった。
「あなたがそう感じていてもあの人がそうとは限らないでしょう」
「それは私の範疇ではないです、そもそもいきなり辞めろだなんて、なんなんですか?」
私にモデルを辞めさせたい女性と、モデルを続けたい私。話は平行線を辿り、アイスコーヒーに浮かぶ氷は溶け結露でテーブルを濡らしている。
ゆったりとしたレコードが流れる喫茶店とは不釣り合いに、ただ冷たくトゲのある声が飛び交う。モデルを辞めさせるような話しかしない女性に苛立ち始めた私は、もう氷が溶けきったアイスコーヒーを意味なくストローでかき混ぜた。普通の女の子なら恥ずかしい、とか、自分の裸がギャラリーに並ぶなんて、だとか。
「私は恥ずかしいとは思ってません、だってアートでしょう?」
「アートだなんて……あんなの、まだ芸術にもなってない、欲をぶつけただけの絵よ」
「結構なこと言うんですね」
自分の前にある生ぬるいアイスコーヒーのような会話がダラダラと続く。もっとも、私にとっては生ぬるいつまらない会話だが、女性にとっては熱いホットコーヒーのような話だろうが。
「……私の主人なのよ」
初老の女性が口を開く。先生は左手薬指に指輪をしていないが、結婚しているということは知っていた。パレットを持ちづらいからであろうか。バイト先はアトリエなので、奥さんと鉢合わせることもなかった。ああ、この人が、と失礼なほどマジマジと見てしまった。
「奥さんだったんですね……会いたかったんです、私」
「会いたかった?」
「……だって、先生にはお世話になっていますから」
ね、というと、まるで汚いものを見るような目で見て来た。お世話って変な意味じゃなかったのにと、苦笑いを漏らすと、また一層顔をしかめる。
カランカランと爽快な音を立てて、ドアが開く。他の客が入ってくると同時に、生ぬるい風が2人の間を抜ける。入ってきたサラリーマンは、マスターに暑いなぁと話しかけた。
「……辞めろというのは?」
「……人物画に、こんなにのめり込むのは初めてなのよ。あの人、風景画で有名でしょう」
「ああ」
たしかにアトリエには、牧歌的な風景画が所狭しと並べてある。それも昔の日付で、今は慣れない人物画に悪戦苦闘しながら私を描いている。
木がざわめく緑、実った後の小麦色、柔らかい空も、今は艶めく肌色になっている。
「個展もひらけない。あの人にははやく人物画は辞めて風景画を描いて欲しいの」
「描きたいものを描かせずに、売れるものを描かせるなんて、画家の妻としてそれは正解なんですか?」
「画家の妻だって、その画家だって食べなきゃ生きていけないのよ」
それに……と言葉を続けた。
「自分の主人が、他の女の裸を見て夢中になってるなんて……気持ち悪いでしょう」
奥さんは、もう湯気の立っていないホットコーヒーを啜る。おぞましいものを見る目で、肩をさする。現実的なその言葉は、それは私にも納得できた。自分には結婚願望も彼氏もいないが、他の女の体を見るのは面白くないのは理解できる。
溜息を吐き伏せた目は艶っぽく、歳をとった今でも昔は恐ろしく美人だったのだろうと容易に想像出来た。
「奥さん、綺麗ですね」
目を細めて、ニコリと笑う。突拍子も無い言葉と、まるで目だけが笑ってないような顔は、相当怖かったのではないかと思う。
「急に何を……」
「昔は、男の人に相当言い寄られたんじゃないですか?」
にっこりと微笑みながらグラスの結露を触る。急に微笑み、褒めてきた私に少しの不気味さを感じる顔をしながら溜息を吐いて答え始めた。
「……昔はね。あなたみたいに、いけない恋に憧れた時期もあったわ」
私は別に、憧れてはいないんだけど。と心の中でつぶやく。
「不倫、ってことですか?」
「……そんなものね」
食い気味で言った私の言葉にすこしピクリとしながらも、コーヒーに目を伏せながらどうせ誰にも聞かれないからと、気だるげにポツポツと話し始めた。
「奥さん、けっこう遊んでたんですね」
「人聞きの悪い……遊んでなんかいないわ」
「ふうん、不倫、っていうから」
「昔のことよ。……ちょうど、貴方くらいの時」
「……へえ」
俯いていた目がパッと上を向く。私の目とぱっちり合うと、奥さんはなぜかすこし怖そうな顔をした。
「その人とは、どうなったんですか?」
「……駆け落ちみたいなものよ。どうせ、うまくいくはずなかったのよ」
無意識に吸っていたコーヒーは底付き、ゾゾ、と汚い音がなった。奥さんは、その思い出を眉間にしわを寄せる。
「いい思い出じゃないんですか?」
「その時は美しい綺麗なことのように感じたけど、いま思い返せばまた違うわ」
ふうん、と私は鼻を鳴らす。
「でも……私、素敵だと思うな」
突然出た突拍子も無い言葉なら奥さんは顔を上げた。はあ?という顔をしていた。無理もない。
「いま手にしているものを全て捨てて、自分のところに来てくれたんでしょう?」
たとえば
「一生愛することを誓った妻とか」
そうだな
「その最愛の女性との間に生まれた愛しい子供とか」
それと
「先生の作品のような、牧歌的で、暖かく、優しさに満ち溢れた家庭とか」
そんなとても放しがたいものを手放して来てくれるなんて、とっても愛されてたって事じゃないですか?すっごく素敵、と手を叩いてみせた。妙にうっとりした顔は、とても不気味だっただろうと思う。
「だ、だから、そのものに負い目を感じて……」
「ええ? だって、知っていたんでしょう? 奥さんは、その相手に家庭があることを」
「そうだけど……」
「なら、問題はないでしょう?」
「そういうことじゃ……そ、そうよ!その私の二の舞になってほしくなくて」
ハッと気付き、こんな私の昔話をしに来たのではないと、それた話を戻す。オロオロしていた眉が、キリッと上を向く。人間は、攻撃する対象がはっきりするとこうも変わるのかと笑いそうになる程、分かりやすかった。
「あなたの……奥さんの二の舞?」
「ええ、他の幸せを壊すようなこと……」
ふふ、と微笑む。
「……そうだなぁ。先生、年の割に素敵だから、あるかもしれないですね」
黒い髪をさらりと靡かせた。奥さんが顔をあからさまにしかめる。その風景は蜘蛛のような不気味さがあっただろうと思う。
「あの鋭い目で見つめられたら、確かにちょっと考えちゃうかも」
もう残りわずかなコーヒーを吸い、上目遣いで奥さんを見やる。氷だけになったグラスからは、汚い音がした。
きっと、この蜘蛛のような美しさを奥さんは持っていたのであろう。恐ろしく、美しく、魅力的で、間違った一瞬が、一生続けばいいと勘違いさせる毒を持っていたのであろう。
それに絡め取られた男……絡め取られにいく男もバカだろうが。
「あ……あなた、自分が何いってるか」
「あら、奥さんもこの気持ち、分かってくれません? 障害があると燃える気持ち……って言うんでしょうか」
その当事者だったんでしょう?と、毛先をくるくると指先に絡ませる。つるんと逃げる毛先は肩は落ちていった。下から上に奥さんを見上げて、ニヤリと笑ってみせる。怒りか、憎しみか、顎をワナワナとさせる。なんて分かりやすい人だと更に笑ってしまった。
「ふざけたこと言わないで頂戴!」
「……冗談ですよ、冗談」
そんな怖い顔しないで、とケラケラと笑ってみせたが、一向に怖い顔は治らない。まともな人が不倫なんてする訳ないでしょうと呟いても、奥さんには到底私のことをまともな人と思えないのか、怖い顔から戻る気配はない。妖艶な顔をしたり、笑って見せたり、そうとう不気味に映っただろう。
「……とりあえず、モデルはやめていただきますからね」
「それは、無理です」
「お金なら渡すわ」
どうせお金なんでしょう?と、高そうな黒色の財布から出て来たのは纏まった1万円札だった。その感情に任せた行動は、昔の想像がついた。まっすぐで熱くなって周りなど見ない所は、不倫していた時から変わってないのだろうなと考察してしまう。
バンと置かれた札はチラホラいる喫茶店の客の視線を集めた。レトロなテーブルとゆったりと流れる音楽に、折り目ひとつない札束は不釣り合いであった。
「これで話はついたわね」
眉間にシワをよせ、一仕事終えたように前髪をかきあげた。私の返事を待たずに席を立つ奥さんに、微笑みながら声をかける。これで全て終わったかのように振る舞う奥さんに笑いが出る。なに1つ終わっていないし、なに1つ、始まってすらいないのだから。
「お金ならいりません」
「足りないって言うの?」
ため息をつき、足元みて卑しいったら、と呟くとまた財布を漁る。そういうことじゃないんだけどなぁ、と苦笑いをするとキッと鋭い目つきが飛んで来た。ほら、また分かりやすい。きっと喜怒哀楽が分かりやすいから、男の人に好かれるんだろうな。
「奥さん」
にっこりと微笑んで奥さんを見つめる。怒りと恐怖が入り混じった目で見下す奥さんは、次私が何をいうかと構えている様子だった。薬指にはめている指輪が、光の反射できらきら光る。なんて綺麗な指輪なんだろう。いくらして、誰に買ってもらったんだろう。
「な……なによ」
少しの沈黙が2人の間を流れる。ゆったりとした音楽も聞こえなかった。コーヒーの匂いと、誰かが頼んだナポリタンスパゲティのいい匂いが充満している。
奥さんの顔をジイと見つめる。目じりには小ジワがあって、さぞこれまで楽しく笑って来たんでしょう。年齢の割に綺麗な肌も、肌荒れしていない手についた綺麗な指輪も、大切にされて、大変な思いをせずに過ごして来た証を、この人はたくさん持ってる。
私は、ゆっくり、にっこり笑う。
「私、お父さん似ってよく言われるんです」
似てますか?
奥さんは、一瞬顔をしかめた。何を言っているの、と口を開こうとした時、奥さんはじわじわ目を見開いて口をパクパクさせた。まるで酸欠の魚みたい。 私は微笑んだまま、その様子を目に焼き付けるように見る。
あの女、画家と結婚して幸せになってるんですって、因果応報なんてないのね、と寂しさと憎しみを母がこぼしたあの日から、私はこの日を待ち望んでいた。この顔がずっと見たかった。このために、なりたくもない裸になった。見せたくもない裸で仕事をした。鳥肌が立つような色目も使った。一生見たくなくて、ずっと見たかった顔。
ずっとずっと、巣を張っていた。かかれ、かかれと、先生をみつめた。これが、私がやっと掴んだチャンス。
「え……あ……」
私は忘れない。真面目な父が、出て行った夜のこと。いつも絵本を読んで寝かしつけてくれるのに、その日はいなかった。夢に落ちる寸前、ドアの隙間からみた父の顔は覚えてる。最後に見た父の顔は、とても嬉しそうな、待ち遠しそうな顔をしていた。美しい蜘蛛に会いに、蜘蛛に絡め取られに。
あなたは知らないでしょうね。あのあと、家がどうなったか知る意味もないのだろうから。あなたからすればスリルがあって楽しいただのアバンチュールだったのだろうけど。
「ありがとう奥さん。コーヒーご馳走さま」
「ちょ、ちょっと!」
装飾されたドアノブに手をかけ、重いドアを押し開ける。外は、カラリと晴れた青空だった。後ろから奥さんは追いかけてこなかった……これなかったのだろう。
私はこれから、風景画に囲まれて『私』を描いている先生が待っている、アトリエに向かう。光沢のあるシーツを纏い、先生の目線も、一身に纏う。
今日は、先生の目をジッと見つめて見ようか、綺麗だねという言葉に甘い言葉を返してみようか。肩に触れようと伸ばし、いつも理性で抑える手を引いてしまおうか。やっとかかった糸を、ゆっくり引いて、寄せて、逃さないように。
『先生、もっと描いて』
『私以外描かないで』
『先生、愛してる』
私を描く先生をたくさん褒めて、風景画まで捨てさせてしまおうか。それとも貶して、筆さえ折らせてしまおうか。もう私以外に会わないように、アトリエに閉じ込めてしまおうか。
アトリエまではまだかかる。たくさん考えよう。
私の復讐は、これからなのだから。
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