42人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ
洋菓子店を出たあと、雅臣はもう一度、若葉に電話した。今度は電話が繋がったので、部屋の前で待っているとだけ伝えた。
午後九時過ぎ。雅臣は若葉の住む賃貸に到着した。そしてスーツポケットに手を入れながら、彼女を待っていた。
午後九時半。低いヒールの音がした。
「……まだ会いたくないって、言ったのに」
気まずそうな表情の若葉が、のぼり階段から現れた。目をそらしながら、雅臣の近くまで歩いてくる。
「家に行く以外、思いつかなかった」
「困る」
「……ごめん」
雅臣は若葉に、合鍵を差し出した。
「これ、返す」
「………。……待ってよ」
若葉は鍵を前に、立ちすくんだ。顔をゆがめると、両手で雅臣の腕を掴んだ。
「雅臣、待って。別れたくない」
「え? ああ、違う。俺も別れたくない」
雅臣の表情は、若葉より明るかった。キーホルダーもついていない鍵を、手で軽く振っている。
若葉は呆然として、雅臣を見つめた。
「……別れたくないの?」
「……無理」
「あ……良かった」
若葉は呆けたまま、床に視線を落とした。間を置いてから、雅臣に視線を戻す。
「……じゃ、鍵、なんで」
「甘えていたし、自分がやばいって気づいたから」
雅臣は若葉の手を取ると、強引に合鍵を握らせた。
「だから鍵はいったん返す。オーケーだったら、またくれ」
「……ちょっと、雅臣」
若葉は雅臣の言葉より、彼の体温に気を取られた。触れた手は、外の空気で冷えていた。
「若葉」
雅臣は若葉のことを、強く呼んだ。
「その……好きだし、結婚してほしい」
「……え?」
若葉はまた、呆けた顔をした。
「結婚して」
二回言われたときに、若葉は顔を赤らめた。
「こないだは俺が悪かった。いくらでも謝るから予定どおり」
「待って、待ってよ」
若葉はとっさに、両手を使って、雅臣の口をふさいだ。
「黙って」
ちゃりんと音を立て、合鍵が床に落ちる。若葉は赤い顔のまま、雅臣を睨みつけた。
「部屋はいろ。ここじゃ恥ずかしい」
雅臣が頷くと、若葉は急いで鍵を開けた。慌ただしく部屋に入っていく。
雅臣はすぐに続かず、コンクリートに落ちた合鍵を見ていた。
「早く来てってば」
若葉はパンプスを脱ぎながら、雅臣を呼んだ。
「……鍵は」
「拾え」
そのまま返さなくていいと、吐き捨てるように言われた。
◇◇◇
若葉は部屋に帰ると、雅臣をリビングにとおした。しばらくしてから、ふたり分の珈琲を淹れて戻ってくる。
「これでも飲んで、落ち着いて」
そう言うなり、若葉が珈琲に口をつけた。すぐにマグカップを離す。
「………」
若葉は黙って、砂糖とミルクを珈琲に入れた。
「で、急にどうしたの」
「仁科と話してきた」
「……ああ、後輩の子」
「今日は打ち合わせ日だったんだ。ケーキは大まかに決めてきたけど、若葉の意見も取り入れるから」
「待って」
若葉がとん、と、机を左手の指で鳴らした。
「さっきの話は、もう終わりなの」
指を机に滑らせ、そのままマグカップを握る。
「さっきって」
「どうして急に、結婚してほしい、なんて」
若葉の左手には、雅臣が渡した婚約指輪が光っていた。
最初のコメントを投稿しよう!