3. ヘキセンハウス

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 栞はヘキセンハウスに釘づけになっている相手に聞こえないよう、そっと呟いた。 「そんなに作品を見られると、恥ずかしい」  安藤は栞を見て、ほほえんだ。 「いや、よくできたヘキセンハウスだよ。東山さんがひとりで担当した部分も含めて」 「店長……私がひとりで作ったところ、わかったんですか?」 「わかるよ。マジパンでハリネズミ作ったの、東山さんでしょう」 「はい」  栞は雪野原に飾るマジパン細工の人形に、ベージュのハリネズミを選んだ。そのハリネズミは、チョコレートビスケットの切り株に座っている。 「なんでハリネズミにしたの?」 「好きだからねじ込みました。理由はそれだけです」  栞は小さくピースサインを作った。  栞がハリネズミを溺愛しているのは、周りの誰もが知ることだった。栞の携帯の待ち受けは、いつもペットのハリネズミだからだ。  安藤はそれに加え、顔の描き方などから、栞が作った人形だと気づいたらしい。 「ハリネズミは幸運を運ぶ動物だそうなので、イメージは悪くないです」  マジパン細工の住民たちは、人間のほかに動物もたくさんいた。 「うん。賑やかでいいよ」  安藤は再び、ヘキセンハウスの作品概要に、目をやった。  白い紙ボードの上には、このヘキセンハウスが作られた経緯と、歴史が描かれていた。  ヘキセンハウスはドイツ発祥の菓子で、『魔女の家』という意味がある。グリム童話のヘンゼルとグレーテルに登場する『お菓子の家』がモデルだと、伝えられている。 「そういえば、このヘキセンハウスを作るときに習ったんですけれど。グリム童話初期のお菓子の家って、けっこう簡単な作りなんですね」 「そうだよ。壁はパン、屋根はパンケーキ、窓は砂糖……で、おしまい。パンの家だね。まあ飢饉のときのお話だから、これで十分なご馳走だけど」  あと英語圏ではヘキセンハウスじゃなくて『ジンジャーブレッドハウス』って名前だよと、安藤はボードに書かれていない知識を、栞に話した。 「ヘンゼルとグレーテルをオペラ化するときに、もっと夢のある家にしようって案が出て……今、世界中で語られているようなお菓子の家に、変わったらしいね」 「店長、詳しいですね」 「自分の店にも、お菓子の家って名づけたからね」  栞は自分が持つケーキ袋を、ちらりと見た。  La maison(ラメゾン) en bonbons(アンボンボン) という店名は、フランス語で『小さなお菓子の家』という意味だ。 「やっぱりお菓子の家が好きだから、店名にしたんですね」 「うん。あとは僕が、安藤って名字だったからだな」 「……はい?」  栞は小首をかしげた。安藤は栞と目を合わせ、まばたきをした。 「言ってなかったっけ」 「聞いてないと思います」 「ああ、お客さんには話さないか。……四月からきみも社員だし、店の由来、聞いとく?」 「ぜひぜひ」  栞と安藤は、話に入る前に、仁科のほうを見た。  マジパン細工を見つめていた仁科は、ふたりの視線に気づいた。 「あ、もう行きますか?」  慌てた様子で、腕時計に目をやる。 「いや、仁科くん。もう少しゆっくり見ていていいよ」 「わかりました」  仁科は頷き、再びヘキセンハウスの世界に入り込んだ。 「今日の仁科さん、なんだか素直ですね」 「好きなお菓子の前では、ご老人でも子供に戻るんだよ。……あいつがゆっくりできるよう、少し離れようか」  栞は安藤に連れられて、壁際に寄った。
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