1. 閑散期のシロップ

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「……夏はほんと売れなくてさ。暑さで食欲が落ちるからね。材料面でも、チョコレートとかもたないし」  製菓業界にとって、夏は閑散期だった。パティシエたちはこの時期に、講習やコンテストに出かけて、スキルアップを目指す。  この店の若手のパティシエも、今日は講習会に出かけていた。 「店が暇なら……せめて、東山さんと今後のこととか。色々な話をしたかったなぁ……」  安藤は大げさにうつむいた。栞は背中に寒気を感じた。 「……店長。私」 「うん」 「とても気にさわることを言ったのなら、おわびしま」 「いやいやいや」  安藤が目尻をさげて笑った。栞はまだ寒気を感じている。  さっきは言葉をかぶせられた。取り合ってもらえていない。 「僕も、聞き方が悪かったからね。……え? でも東山さんってもう二十歳? 僕がフランス修行を決めた年齢と同じ?」 「………」 「ま、もういいか」 「店長」  栞はめいっぱい、落ち着いた声を出した。 「わ、私だって、就職や将来のことは考えています。だいたい私はここのバイト、就職を前提に、採用されているじゃないですか」 「甘くなりすぎないように『採用するかわりに必ず四年で出る』も条件だったね」 「そうそう!」  短大在学中に二年、就職してから二年。そういう約束も交わした。三年から五年で転職が推奨されるパティシエならではの、条件といえた。 「やっぱ今すぐ出てってくれる?」 「勘弁してください」  栞は雇用主に、深く頭をさげた。 「冗談だよ」 「笑えません」  安藤は口笛を鳴らした。栞は安藤の口笛が、海外のコメディー番組のものだと気づいた。……どうやら上司の機嫌は、そう悪くないらしい。  だけれど今うかつなことを言えば、本当に就職口が消える。
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