3. ヘキセンハウス

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 大理石の壁に寄りかかると、二階や三階のフロアーに繋がるエスカレーターが、よく見えた。栞と安藤の側では、新年用のフラワーアレンジメントが飾られている。 「La maison(ラメゾン) en bonbons(アンボンボン) って屋号の由来だけどね。まずこれをつけたのは、今から約十五年前の、まだ二十代の僕だ」 「はい」 「フランスと日本での勤務経験を得た、当時の若かりし僕は……定番として、自分の店はフランス語の名前をつけようと、考えた」 「本場フランスで修行した経験を、店名にも表そうとしたんですね」 「そう。フランスは……ぼこっと膨らんだ生地をキャベツに見立てて、シューアラクレームと名づけたり、甘党をペシェミニヨン……『可愛い罪人』と表現したり、なにかと詩的で、お洒落な感性だ」  安藤はにこやかに話していたが、ふっと、声を落とした。 「そして……タタン姉妹が作ったから『タルトタタン』とか、シブーストさんが開発したクリームが使われている『シブースト』とか、あれこれ。フランス菓子は製作者の名をそのままつけているケースが多い。僕はここには、プライドが高い国民性を感じているよ」 「……そういえば和菓子だと、製作者の名前って、思い当たらないですね」 「日本銘菓は、情景や風土を重んじているよね。新年の祝い菓子に『花びら餅』とか。あれは味も好きだな」  安藤はしみじみと言った。 「味噌餡がいい」 「それでどうして、店長は『お菓子の家』って名前にしたんですか?」  栞はやんわりと話を戻した。 「最初はフランスっぽく、自分の名を店に入れようとした。あと三十にもなっていない僕は、長い外国語がかっこいいと思う、流行り病にかかっていた」 「……病気なんですか」 「うん。で、そうしたらフランス語の『en(アン)』とか『du(ドゥ)』とか……安藤(あんどう)と、被るんだよ」 「ええと……。あんあんどう、とか、どうあんどう、になっちゃうんですね」 「そういうこと。シンプルにパティスリーアンドウとか、あと名字じゃなくて名前の『陽平(ようへい)』を使おうかとも考えたけど……いまいちピンと来なくて。名づけに迷ったんだ」  安藤は遠目で、ジンジャークッキーで作られた家を見つめた。 「そうやって La maison(ラメゾン) en bonbons(アンボンボン) ――お菓子の家に、たどり着いた。童話に出てくるものなら、フランス語でも親しまれるかと思って」  店名としてはやっぱり長かったかな、と安藤は笑った。 「ま、そんな後悔もあった店だけど。来年度で十五周年を迎えるから、ひと安心だ」
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