1. 閑散期のシロップ

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 安藤は衛生管理のためのマスクをつけると、甘い香りと爽やかな香りが混ざるバックヤードへ戻った。栞は、バックヤードとショーケース側を隔てているガラスを、清掃用のクロスで拭いた。 「就職先は……実は他店も考えたんですよ。不義理になるかと思って、言わなかったんです」 「へえ」 「視野を広げたうえで、やはりここ。メゾンさんが第一志望です」 「参考に第二志望、第三志望を聞いてもいいかな」 「はい――」  栞は、第二志望に個人経営の洋菓子店、第三志望にはシティホテルの名を挙げた。それからあとは、栞の志望は『個人経営の洋菓子店』が続いた。お客さまとより距離が近いほうが好き、という理由から。 「ホテル勤務も、やりたいとは思っています。ただ最初は、自分が目標とするタイプのお店で働きたいです。……そして町のケーキ屋さんの中では、メゾンさんが一番好きです」 「きみは小さいころから、うちのお得意さまだったものね」  安藤が目を細めた。  そして業務用の冷蔵庫まで歩くと、中から細いガラス瓶を取り出した。 「じゃ、ちょっとしたテストをしよう。全問正解したら、いいものをあげるよ」  安藤は栞に、ガラス瓶の中身を見せた。透きとおったガラス瓶には、とろりとした、淡いピンク色の液体が入っている。 「これがなにかわかる?」 「……ジンジャーシロップですか?」 「正解。次、材料を全部あててみて」  栞は喉を鳴らした。 「……採用テストですか?」 「そんな大げさなものじゃないよ」  言葉は信じきれなかった。 「味見してもいいですか」 「もちろん」 「ありがとうございます」  栞はバックヤードに入り、細いガラス瓶のふたを開けた。新生姜と砂糖の香りがする。  テスト中だというのにまず、とても美味しそうだと思った。  新生姜と砂糖と水。これらとスパイスを煮詰めて作ったジンジャーシロップが、薄紅色に仕上がるのは、レモン汁を加えるからだ。……あとは、使われているスパイスをあてなきゃ。  栞はスプーンを使って、ジンジャーシロップをすくった。ひとさじ分を口に含み、ゆっくりと味わう。わあ美味しい、と喜ぶ自分を、頭の隅にやる。 「新生姜とグラニュー糖……蜂蜜、レモン汁。……それから、シナモン、バニラビーンズ、クローブ、黒胡椒が、使われていると思います」 「惜しい」 「……あ、じゃあアニスも!」  安藤は「正解」と、拍手をした。
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