41人が本棚に入れています
本棚に追加
栞が安藤の態度に動揺していると、店の自動ドアが開いた。
栞は客を出迎えるべく、ぱっと振り返り、そして言葉を失った。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れ」
この店の若手のパティシエである仁科が、自動ドアをくぐって、店に入ってきた。無愛想な表情で。
彼は講習帰りのためか、今日はネイビーのスーツを着ている。落ち着いた茶に染めた髪と、スーツのストライプ柄が、硬い印象をやわらげている。
栞は思わず、仁科から顔を背けた。……化粧に気を抜いたので、あまり顔を見られたくなかった。
「急に呼び出して悪いね」
安藤が栞より前に出て、仁科を迎えた。
「オーダーが来たんだけど、ちょっと仁科くんに、話を聞きたくて」
「全然いいですよ。店に寄るつもりでしたし……。けど、ひと休みしてからでいいですか?」
仁科が額の汗をぬぐい、首元のネクタイを緩めた。
「外が暑すぎて、倒れそうです」
「そんなスーツで行くからだよ」
安藤は黙って、栞の手から、ガラス瓶を取りあげた。そしてピンク色のジンジャーシロップを、仁科に向ける。
「今日は特別に、ジンジャーシロップを持ってきたんだ。……自家製の『ジンジャーエール』を作るから、休憩室で待っていてよ」
栞は、あ、と口を開けた。
薄切りのレモンと、爽やかな香りのスペアミント。冷凍庫以外にも、ヒントは散りばめられていた。
「マジですか。いただきます」
仁科はくだけた態度を見せると、黙り込んでいる栞に、目をやった。
「に、仁科さん。お疲れ様です」
栞はぺこりと頭をさげた。顔をあげると、仁科が側まで来ていた。
「な、なにか」
仁科は栞の顔を、まじまじと見つめ、安藤に言った。
「店長。東山、少し疲れてないですか?」
「そうかもね」
安藤も栞の顔を、じっと見た。
「東山さんにも、休んでもらうことにするよ。仁科くんは先に休憩室へ行ってて」
「わかりました」
仁科は栞に「無理するなよ」と言って、休憩室に向かった。
栞はまた、安藤とふたりきりになった。
「仁科くん、いいよね。きみが夢中になるのもわかるよ」
安藤は冷凍庫から、氷と、冷えたグラスをふたつ、取り出した。続いて冷蔵庫から、炭酸水を出す。
グラスに透明感がある氷を入れると、新生姜から作られたジンジャーシロップを、手際よく注いだ。
「今だってすぐ、東山さんを心配してさ――今日の東山さん、アイカラーは重ねてないし。まつ毛だって巻いただけなのに、そのへん気づいてなさそう。……あいつ顔色しか見てないんじゃない?」
シロップと氷の上に、炭酸水を注ぐ。炭酸が弾ける音がして、薄紅色のジンジャーエールができあがった。グラスのふちには輪切りのレモンが飾られて、光る氷の上には、スペアミントが添えられる。
「今日は仁科くんがシフトにいるときより、簡単なメイクだよね」
「……私のメイクの違い、店長は、ご存知だったんですね……」
栞は銀のトレイを構えて、安藤の側に行った。顔色は良くない。
「そりゃ気づくよ。あのさ、店を出たら、もう好きにしていいから」
安藤は作りたてのジンジャーエールをふたつ、銀のトレイに置いた。
「勤務時間中は、あまり華美でないメイクをお願いします」
「………」
「これ以上メイクが派手になる前に、言っとくね。……飲食店の接客業だから、ケーキより目立たないように」
今日のほうが理想に近いかな。安藤はそう、栞に指導した。
「身だしなみとお洒落の違い、わかるよね」
「はい」
ヘアカラーは自由、アクセサリーは禁止、長い髪はまとめる……等々が書かれた規則の中に、メイクについての注意事項も記載されていた。
「注意点はそれだけ。じゃ、今後ともよろしく」
「よろしくお願いします」
栞は複雑な気持ちで、安藤に頭をさげた。さげる前に、安藤の髪を見た。
アッシュブロンドに染めた髪色は、帽子を被る職場では、それほど目立たない。
最初のコメントを投稿しよう!