1. 閑散期のシロップ

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1. 閑散期のシロップ

 甘い香りの洋菓子店で、固定電話の呼び出し音が響く。  三回目の呼び出し音が終わる前に、従業員の東山栞(ひがしやましおり)は、受話器を取った。 「お電話ありがとうございます。洋菓子店『La maison(ラメゾン)en bonbons(アンボンボン)』です」  舌を噛まないよう、フランス語の店名はゆっくり言った。  七月下旬。午後四時を過ぎても外は明るく、蒸し暑い。 「……仁科(にしな)ですか? 仁科は本日、留守にしております」  栞は今日、いつもより化粧に気が入っていない。アイカラーは単色で済ませ、デートならかかさないマスカラは、塗らなかった。  上司の仁科――恋人がシフトに入っていないので、つい手を抜いた。  明るい茶色に染めた髪をまとめるのは、バッグに常備している、デニム地のシュシュだ。 「はい……はい……。オーダーケーキでしたら、店長が承っております」  栞は電話を保留にすると、調理場にいる男性のもとへ歩いた。 「店長、かわってください。オーダーのお電話です」 「あいよ」  店長の男は、ミントを選別する手を止めて、電話の子機を受け取った。  彼は四十歳を超えていて子供もいるが、従業員の誰よりも髪色が派手だった。現在は短い髪を『白髪染めのついでに』と、アッシュブロンドに染めている。 「はい。『La maison(ラメゾン) en bonbons(アンボンボン)』、私、店長の安藤と申します」  安藤はフランス語の店名をよどみなく言いながら、メモ帳を持った。  栞は安藤が電話応対している間、調理場を覗き見た。  調理場には焼きたてのクッキー。……そして薄切りのレモンと、新鮮な香りのスペアミントがある。夏に歓迎される、爽やかな組み合わせだ。  ……あのふたつを使って、なにを作るつもりなのだろう。ショーケースには、レモンとミントの両方が乗っているお菓子はないけれど……。  栞が考えていると、通話を切る音がした。安藤がショーケース側にやって来る。 「店長。オーダー、通りそうですか?」 「うん」  店長の安藤は、メモを片手に答えた。彼は穏やかな顔つきだが、考えごとをしているときは鋭い印象になる。 「先の話だけど。十一月にウェディングケーキのオーダー」 「ウェディング!」  栞は声を弾ませた。 「いいですね。店長、どんなケーキを作るんですか?」 「さあ……。このお客さん、時間がかかりそうなんだよね」  安藤はカフェエプロンから携帯電話を取り出すと、手早くメッセージを送った。 「仁科くんの知り合いらしいから、任せてみるか」 「そう言えばお客さん、仁科さんをご指名でしたよね」  栞は壁にかかったホワイトボードに、視線をやった。ホワイトボードには、各従業員の予定が書かれてある。  今日の予定には『仁科 講習』とあった。 「仁科さん、そろそろ講習が終わるころかな」  栞はやわらかく笑った。  安藤は思案顔で、十年物の壁時計を見た。まもなく五時。
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