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あの世を統べる神様の声を聞いたのは、死んでから何日も経った今日がはじめてのことでした。
『齢は十五、前世の名前は亮介。間違いはないですね』
「はい」
『そろそろ迎えが来ます。準備はしてありますか』
「はい、してあります」
あなたの体は、僕が見てきたすべてのものよりも大きく感じました。僕が光り輝くあなたを直視できず、うつむくと
『おまえ、顔をあげなさい。よく見せて』
「はい」
その瞬間、無機質な光が少しだけあたたかくなったような気がしました。相変わらず直視できず、目を細めながら顔をあげると、光が弱まり、あなたは優しく微笑みかけてくれました。
『ここに来る前に神使から説明を受けたと思いますが、聞き漏らしたことはありませんか』
「いいえ、ありません」
僕は落ち着いて答えました。
するとあなたは、人一人包み込んでしまえるほど大きな手のひらを僕の目の前にかざして
『最期に顔を合わせたい人間の名前を言いなさい』
僕は事前に神使から説明を受けてから、ずっと誰がいいか、考えていました。
最期だから、常に聴いていたバンドのボーカルの生演奏が聴きたい。最期だから、人気アイドルグループの緑担当と握手したい。最期だから、よくしてくれた近所の兄ちゃんとゲームして遊びたい。……好きだった女子に想いを伝えたい。
色々と考えましたがいまいちピンと来ず、五分ほどあなたを待たせてしまいました。
そうして悩んでいると、神使が、親族を選ぶ人間が多いのだと助言をくれました。ですが僕は親と会う気にはなれませんでした。
仲が悪かったわけでも、喧嘩別れをしたわけでもありません。
両親はなにかにつけて、親より先に死んだら許さないよ、と言い、やんちゃする僕をいさめました。それなのに親より早くに死んでしまった。事故という不可抗力なできごとだったとしても。
『おまえ、悩むようだったらあとにまわしますか』
「いえ、決まっています」
『では、名を』
「……健」
僕はクラスの嫌われものの名前を答えました。
最期に会うのが健だなんて、誰よりも愛してくれた人たちに悪いと思いました。相場など関係なしに、会うべきなのは親だということも理解しています。
それでも僕は、馬鹿にされても下手くその烙印を押されても、いつも楽しそうに笑っていた健に、ふと、会いたくなってしまったのです。
あなたがかざしていた手の真下、光と共に健がぽっと現れました。
呼ばれた人間は状況を瞬時に理解するのですか? 健はさも当たり前のように、よっ、と馴れ馴れしく挨拶をしてきたので、少しだけ睨んでやりました。照れくさかったのです。
それでも、健は怯むことなく僕の方へ歩み寄ってきました。
「よっ、元気してた?」
「いや元気してないからここにいんの」
「ああ、そういえば、そっか」
「今なにしてた?」
「ん? 今はね、晩飯食ってたとこ。今日は刺身が安くてさ。海鮮丼をかきこもうとしてた」
「ちょうどそんな時間か」
「うん。でもよ」
健は、なんで俺だよ? と目を細くして笑いました。
それもそのはずです。
僕たちは一度しか話したことがありませんし、その一度きり、言葉を交わすことも、ましてや顔を合わせることもなく、死んでしまいましたから。
「とりあえず、弁解させてくれ」
「弁解ってなんだよ?」
「俺はな、別に健が好きだとかそういうわけじゃない」
「お、辛辣だな~」
「健の馬鹿話を聞きながら、馬鹿馬鹿しく死にたいだけなんだよ」
時間もないし短めに頼むと付け加えると、健はへらへら笑いながら
「いーよ、わかった。最期のお願い聞いたげる」
と言って、生肉とキスをした話を昨日のことのように話しだしました。
「俺んち、両親が共働きでさ。帰るのが夜の十時とか当たり前なんだよね」
「俺もそうだった」
「だとさ、ま、当然自分で飯を作らなきゃいけないじゃん」
「うん」
「でさ、まず弟に食べさせなきゃいけないわけよ。それに弟、特別朝に弱いから早めに寝かせたいし」
「な。兄弟がいるとでっかいほうが面倒みなきゃいけないのな」
「そうなの。それで、スーパーで買っておいたやっすい豚肉を炒めものにしようと思って冷蔵庫から取り出したらさ、なんかね、色が変なの」
「いかにも腐ってるって色?」
「そう。言うなれば絵の具全部混ぜたみたいな。でまあ、ダメも承知で臭いを嗅ぎにいったらさ、勢いあまって、唇にごっつんこしちゃってさあ」
この話は耳が腐るほどに聞いた話です。
いじめ連中に『面白い話をしろ』と無茶振りを食らうと、必ずこの話を披露していました。面白くないと揶揄されても、自信ありげにこの話を披露していたんです。
はじめて聞いたとき、僕は同情で笑いました。
健は同じ話だというのに毎回、口調を変えてくるんです。いつも新鮮で、なんだか面白くて、いつしか本気で笑っていました。
僕だけが笑っていました。
周りの人間は僕を奇異なものとして見ていました。
それでも僕は、ひたすら笑いました。
だから僕はこの話を選んでくれたことに感謝したんです。勿論、心の中でですが。
「ファーストキスが生肉って忘れたくても忘れらんねーよ、ははは」
「ほんとその話よくするよな」
「気に入ってんだよ。それに」
健は不意に、亮介が笑ってた話だから、と言いました。
僕はなにも言えず、黙ることを選びました。
そんな僕の様子を見て、健はにやつきながら
「図星だろ。どうだ?」
「別に。どうもこうも」
「素直じゃないよなあ」
僕は小馬鹿にした口を聞く健が大嫌いです。
……でも。
あのクラスの中で健の面白さがわかるのは、僕だけしかいなかったと思います。それは胸を張って言えます。
だからこの先、健はきっと、僕がいないことを寂しく思うでしょうね。
「俺たち一度だけ話したことがあっただろ。どうして俺が話しかけたのかわかるか?」
僕は答えられないことを前提に問いかけました。すると、健は
「うーん、なんとなくわかるよ。俺さ、嫌われたくないのに嫌われていくから、どうしようもなくてさ。家に帰ったら学校でなにしてたか忘れるくらい必死で。……だから、亮介の同情を買ったんだと思ってる。痛々しかったんだろ、俺」
これは半分正解で、半分大外れ。
健はいつも教室の隅で縮こまっていました。それは、物理的な攻撃も心理的な攻撃も避けるための一種の手段だったと思うのです。
僕は、そんな健の寂しそうな横顔に魅せられてしまった。
……この表現が当たってるかどうかは神の、あなたのみぞ知るだと思います。
僕は後先のことを考えず、クラスメートの前で健に話しかけました。健の寂しげな顔を一刻も早く、変えてやりたくて。
けれどそれが教室で安心して息ができた、最後の時間でした。
健に話しかけたという理由で、ただそれだけで、僕が陰口を叩かれるようになってしまったのです。
覚えている悪口は『お前も同じ穴のムジナ』。
未だに意味がわかっていません。僕はただ健とのコミュニケーションを図りたかっただけですから。
理不尽にいじめ連中から目の敵にされた僕は、逃げるように家へ帰りました。次の日になればなにもないだろうと思っていましたが、蓋を開けてみたら、健と同じような仕打ちが待っていたのです。
でも何故でしょう、後悔はなかった。
あなたは見ていたのでしょう?
だから、僕にチャンスをくれた。
違いますか?
「亮介が話しかけてくれたとき、とんでもなく嬉しかったんだ。俺にとって、そうだな、亮介は蜘蛛の糸だよ」
「大げさな。俺は別に健を助けたわけじゃないよ」
「またまた」
「健の馬鹿話が聞けなくなるのが嫌だったから。それだけ」
結局は自分のことしか考えていません。
お礼を言われる義理はないのです。
それなのに健は
「それでも、俺は亮介に恩を感じてるよ。勿論、これから先もな」
健がそういうことを平気で言うやつだったなんて、死ぬまで知りませんでした。
どうか、神様が放つ光の眩しさに気をとられて、泣きそうになった僕に、気づいていませんように。
「な、健」
「ん?」
「さっき、『なんで俺を呼んだんだ』って言っただろ」
「おう、言ったよ」
「俺はな。お前に生きていてほしいって伝えるために、呼んだんだ」
僕の真剣な顔を見て、健は驚いたようでした。重い雰囲気にいたたまれなくなったのか茶化そうとしていたので
「ちゃんと聞いてくれ」
と制すると、健の顔もみるみる真剣になっていきました。
僕はどうしても、誰からも必要とされていないと思い込んでいる健に、伝えたいことがあったのです。
「誰になんと言われようとな。健は変人なんかじゃないし、なんなら、あのクラスの中で一番マトモだと思う。俺はお前の言うこと為すことすべてが馬鹿馬鹿しくて好きだった。うーん、なにが言いたいかっていうと、健はさ、確実にいいやつで面白いやつで、だから、あんまり自分を卑下すんなよ。俺との約束な。最初で最後の約束。……あ、それはちょっと、重いか?」
僕が照れながら健を見ると、健は、なんとも言えない不細工な面をしていました。
健の泣きっ面は、不細工です。
「なに急に。泣かせに来てるだろ。やめろって、ほん、とに」
でも、健の泣き顔は、頑張って生きている人間の顔そのものだと感じました。
「だから俺はさ」
『おまえ』
「……なんですか」
『これ以上ここにとどまると魂の抜けた肉体が消滅する、この人間を現世へ戻します』
「そんな、もう少し、もう少しだけ」
「もうお別れか……寂しいな」
「神様待ってくだ」
『さあ』
「た、健、俺はさ、ずっと、おまえと友だちになりたかったんだ。急に変なこと言ってごめん、最期にこんなこと言ってごめん」
「っ、俺もだよ。俺も、ずっと」
「それに、今さらなんだよって思うかもしれないけど、もう、間に合わないって分かってるけどさっ、本当はな、おまえともっと話したいことがあったんだ。俺は、俺だけは、おまえのことが嫌いなんかじゃ」
『さあ、戻りなさい』
あなたは僕が話している途中で、健の頭上に手をかざしました。すると健は呆気なく消えて、現世へと戻ってしまいました。
健に僕の気持ちは伝わっているでしょうか。それが少し気がかりです。
『そんなに気になるのですか』
はい。
『ならば、ここをのぞいてみなさい』
あなたは僕が立っている雲にぽかりと小さな穴を開けました。
そこから様子をうかがってみると、オレンジ色に染まった歩道が見えました。時間の流れは現世の方が早いのですね。
あ、健だ。
健が向こうから歩いてきました。
下校中かな。
……健を追うように、いじめ連中も。
僕になにを見せる気ですか。
『よく見なさい。おまえが見なくてはならないものですよ』
「あいつ死んだんだってな。事故?」
「ざまあねぇな、はは」
「誰からも相手にされねーでさ。なんだっけ、『嫌いにならないでよ』だっけ?」
「言ってた言ってた。気持ちわり。馬鹿馬鹿しっ。誰もお前のことなんて好きにならねぇっつうの」
どうしてこんなものを見せるのですか?
あいつとはきっと僕のことです。
死んでもなお、こんなふうに言われなきゃいけない。僕がなにをしたっていうんでしょう。
僕は密かに期待していました。
僕が死んだあとはいじめをきっぱりやめるんじゃないかって。
「おーい健くぅん、健くんも死ぬの? 後追いすんの?」
「きゃははは! すればいいのに」
せめて、僕のぶんの不幸が健にふりかかることがなければいいって。
「なあ、こんなこと言っててよ。俺ら呪われるんじゃね?」
僕は睨みつけました。
痛みを感じるほどに睨みつけました。
けれど、虚しくなってしまった。
こんなことをしたってなんの解決にもならない。
『それでも見ていなさい』
あなたはそれしか言いませんね。
僕はもう一度様子をうかがいました。すると、いじめ連中の前をとぼとぼ歩いていた健が鬼の形相でふり返って
「ふざけんな!」
と叫んだのです。
あの健が。
いつも笑っている健が。
おちゃらけている健が。
僕のために。
もうどうにもならないのに。
「は? なんだよ」
「亮介が誰にも愛されてないなんて、馬鹿言うんじゃねぇよ!」
そう言ってもいじめ連中は黙らず、逆に火に油を注いだようで、いじめっこは顔を真っ赤にして健に掴みかかりました。
僕は拳に力が入り、雲を殴りつけてしまいました。
本当に呪えたらいいと強く願っても、健はいじめ連中に振り回され続けている。どうしてこんなものを、どうして、とあなたに問い続けても、なにも言わずただ見つめていましたね。僕を、健を。
「うっせえな。急になんだよ!」
「物好きは、ちゃんといる! ここに! お前らなんかに亮介のなにがわかる!!」
健は果敢に言葉で戦いを挑んだのです。どうしてか、僕は胸があたたかくなりました。失いかけていた熱という熱がすべて、顔に上がってくるのを感じました。
僕は、泣いていました。
果敢に言葉で戦うことを選んだ健に対して、いじめ連中は、暴力で制することを選びました。
けれど健の大きな声を聞きつけた通行人が通報し、いじめ連中たちは、あっけなく大人たちに連れていかれました。
健は身をていして、いじめ連中が悔いる結果になるよう仕向けたのでしょうか。こればっかりは健のみぞ知るです。
でも、きっとそうなんじゃないかな。
本当に馬鹿なやつです。
本当に……。
健は妙にスッキリとした顔で空を仰いでいます。僕と今、目があっているのには、気づいてなさそうです。
僕の泣き顔も見えていない。
それは、僕にとって都合がいいことです。
……神様、長くなりましたが話を聞いてくれてありがとうございました。
気がかりなことはもう、ありません。
さあ、僕を、連れていってください。
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