忍田夏生について

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忍田夏生について

放課後、 幼馴染の夏生(なつき)に呼び出されたのは 高校に入学して初めての夏だった。 例年より早く 梅雨明け宣言された空。 それは夏休みを一週間後に控えた 生徒達の心を映したかのように 青く、どこまでも迷いなく 澄み渡っていた。 校庭の片隅には季節に選ばれ 先陣切って咲いた数本の向日葵が、 太陽を探しつつ誇らしげに 顔を上げている。 夏生より早く 待ち合わせ場所に着いた僕は 滲み出る汗を拭いながら、 欅の木にしがみついた蝉の抜け殻を 呑気に観察していた。 その日の朝、 登校時夏生はすれ違いざまに 言った。 「話したい事があるから、 放課後体育館の裏で待ってて」 ──話したい事って、 一体なんだろう。 くすぐったい胸騒ぎを抑えながら、 夏生の言葉を噛みしめ セピアがかった半透明な 抜け殻の中を僕は覗いた。 ──蝉の命は一週間なんていうけど 実際は暗い土の中で7年もの間 過ごしているんだよな。 虫にしては 異例のご長寿なんじゃないか。 まあ、 人に流れる時間と虫に流れる時間は 同じじゃないのかも しれないけれど。 抜け殻の住人はこのシェルターを 置き去りに今はまだ声も疎らな 蝉時雨(コーラス)へ参加してるに違いない。 この琥珀色の過去を 脱ぎ捨てた奴は我が世の春を 謳歌してるんだろうな。 もうすぐ夏だけど。 そんな事を呑気に考えていた。 この数分後、衝撃的な告白を 聞く事になるとも知らずに。 グランドでは部活連中の掛け声や 球を捉える金属バットの音が、 まるで何処か違う次元での 出来事みたいにぼんやり遠くで 響いている。 「ゴメン。待った?」 慌てて空蝉(うつせみ)から 目を離して振り向くと いつから居たのか僕の後ろに 夏生が立っていた。 ポンコツな旧式の機械みたいに 心臓が激しく稼働して、 鼓動は急激にぎこちなく動き出す。 色素が薄い夏生の髪を 木漏れ陽がまだらに染める。 抜けるように白い肌は 汗だくの僕とは対照的に、 まるで生まれてこのかた 汗をかいたことなんて なさそうに見えた。 光も汗も全て跳ね返すような 夏生の生命力溢れる オーラが眩しい。 僕は一気に顔が熱くなるのを 感じた。 「は、話って……何?」 夏生は一瞬思案するように 柔らかそうな髪をかきあげながら、 欅の梢を見上げた。 形の良い、それでいて 意思の強そうな眉を 僅かにしかめながら。 夏生の耳たぶを点々と縁取る 赤い痣がチラリと見えた。 それさえも小さな赤い実の ピアスみたいに可憐だ。 長い睫毛をゆっくりと伏せ 夏生は意を決したかのように 真っ直ぐ僕の顔へと視線を移した。 慌てて僕は目をそらす。 僕の視界に、 スラリと長い足がチラついた。 まるで大地に息づく しなやかな植物みたいだった。 夏生の顔を直視出来ず下を向く。 「コータ」 夏生の声に 僕はおずおずと顔を上げる。 夏生は僕の目を見ながら ハッキリとした口調で言った。 「私、妊娠したみたい。 産んで良い?」 「え……何て?」 顔を上げてぼんやり見ている僕へ しびれを切らしたように、 ハッキリとした口調で もう一度夏生は言った。 「赤ちゃん、産んで良い?」 沈黙する二人の間をグランドから 微かに砂の匂いがする乾いた風が すり抜けて行った。 ── どゆ事? 何で妊娠してるの? 何で僕に訊くの? 全く心当たりがないんだけど。
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