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忍田夏生は
学校の男子共が誰しも
すれ違いざま振り向かずには
いられない程魅力的で
特別な空気をまとっている。
全校の女子は羨望と嫉妬で
近付く事を躊躇せざるを得ない
様子だ。
まるで人間とは似て非なる者。
そんな特殊な存在だった。
恐らくそれは学校の外でも例外では
ないだろう。
──そんな夏生が、妊娠したって?
産んで良いって何を?
かつて僕達が田舎に住んでいた
チビの時分には、
そりゃ、夏生と手を繋いで
山や野原を駆け回ったりもした。
いまだに背丈がチビのまま
高校生になった今の僕にとって、
もはや夏生は近付く事さえ
ままならない存在になっていた。
人間はみな平等だ……
なんて、嘘だ。
そんなの今時じゃ小学生だって
知っている。
スクールカーストを超越した次元に
たたずむ女王夏生に対し、
ズバ抜けた運動能力も学習能力も
無く何の特徴も主張もない僕は
限りなく最下層民だろう。
それにしても……。
経験はなくとも、
どうしたら妊娠するか位
僕だって知っているつもりだ。
小学生の頃、
初めて友達から聞いた時は
にわかに信じられなかったけど。
──違ったのか?
僕が勘違いしているのか?
本当はもっと違う方法で
女の人は妊娠するんだろうか?
実習はまだだから
確かだと言い切れない。
今更それを夏生に訊く訳にも
いかない。
「お父さんになってくれるよね?
あの時神社の境内で、
お嫁さんにしてくれるって
コータ約束してくれたよね?
雨が降っても構わないって」
混乱する僕へ畳み掛けるように
夏生は矢継ぎ早に言った。
──危ないから
行っちゃいけないって
言われていた、
今にも崩れ落ちそうな
集落外れのさびれた神社。
朽ちた境内に
怪我をした仔犬が迷い込んで、
コッソリ食べ物を運んだり
薬を塗ってやったり……
一緒に遊んだ。
でもそれ、一体いつの話よ。
夢のように朧気な記憶……。
夏生には幾多のピンチを
救われてきた。
笑われるかもしれないけど、
夏生にとってそれが例え
どんなピンチだったとしても
僕は夏生の力になると昔から
心に決めている。
「……わかった」
木の肌にしがみつく
魂の抜けた半透明の体を
そっと外しながら
僕はひとりごとみたいに
答えていた。
夏生は安心したように微笑んだ。
「コータ!」
声に驚いて顔をあげると、
夏生は僕の口に水色の飴玉を
放り込んだ。
甘酸っぱいラムネ飴の味が
口の中に広がる……と同時に
心臓が大きくひとつ波打った。
突然の出来事で
鳩が豆鉄砲を喰ったような
顔の僕に気をとめるでもなく、
夏生は僕の制服のポケットに
手を突っ込む。
その手には茶色い飴玉が
つままれていた。
僕は大阪のオバチャンじゃないから
ポケットに飴玉を常備している
習性はない。
何かのトリックだろうか?
唖然としている僕を
面白そうに眺めて夏生は
コーラ飴のようなそれを
自分の口へ放り込んで
いたずらっぽく微笑む。
そして制服の上から
優しく自分のお腹を撫でると
ひとこと残して体育館の裏から
立ち去った。
「これは二人だけの秘密だよ?
じゃ、三年後立会い出産
よろしくね」
僕の頭は更に混乱した。
── 三年後?
今、妊娠してるんだよね?
良く分からないけど
女の人の出産って昔から
十月十日っていわない?
僕は今までの常識を
グチャグチャにされた頭を
抱えながら鞄を背負って
フラフラと家路についた。
夏の気配を孕んだ真っ青な空は
いつの間にか雲行きが怪しくなって
僕の額に小さな雨粒を
落とそうとしていた。
嵐が近付いているのかもしれない。
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