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ヌバタマという猫
「ただいま」
母の遠い親戚だというおばさんが
経営するアパートの一室。
ドアの鍵を開ける。
大きい黒猫が
まるで待っていたかのように
「にゃあ」と返事をした。
ヌバタマだ。
鞄を放り出して
ベッドに倒れこむ僕の横に、
いつものようにドッシリと寄り添う
黒い塊。
一見黒に見えるけれど、
陽の光を浴びると実際は
茶色っぽい猫というのはよくいる。
けれどヌバタマは真の黒。
混じりっ気なしの黒。
黒にかかる枕詞射干玉の名に
相応しい漆黒の猫だ。
婆っちゃんと二人で暮らした
田舎の家を出る時、
寂しくないようにと
持たされた黒猫。
元々半野良の猫だ。
婆っちゃんは心臓が悪かった。
腕の良い医師がいるという病院を
親戚から紹介され、
婆っちゃんはそこへ入院している。
だいぶ前の話だ。
難しい手術をするらしく、
退院まで面会も出来ないらしい。
婆っちゃんからは時折手紙が来る。
黒猫は僕が生まれた時にはもう
付かず離れず影法師みたいに
側にいた。
コイツが一体いつから
婆っちゃんと暮らしていたのか、
今何歳位なのかはまるで判らない。
それどころか雄か雌かさえ謎だ。
断じてそれは僕が
生物音痴だからではない。
元々コイツには雄としての特徴も
雌としての特徴も、ない。
コイツと長く暮らしていた
婆っちゃんも、
健診で連れて行った
動物病院の獣医でさえ、
雄か雌か判らなかった。
あえて言うならば、
半陽というヤツなのかもしれない。
婆っちゃんはヌバタマの事を
言葉がわかる特別な猫だと
信じていた。
それは、
どう聞いても「ニャオ」としか
聞こえない鳴き声を、
猫可愛がりな飼い主が
「オハヨ」とか「ゴハン」だとか
言っていると主張する類の
ヤツだろうと僕は思っている。
猫可愛がりアルアルって奴だ。
猫に人間の言語が理解できるとは
到底思えない。
残念ながら婆っちゃんの言葉を
丸呑みできる程
僕はもう子供じゃない。
「ゴハンだよ」って言葉に
反応するのは単に
『パブロフの犬』的反応だろう。
猫だけど。
そうわかってはいるけれど、
ついついその日学校であった
出来事やちっぽけな悩み事なんかを
ヌバタマに向かって
話してしまうのが僕の日課に
なっていた。
一緒に暮らしている家族は
ヌバタマだけだったから。
いつだってヌバタマはシラけた顔で
僕の話を聞いている……
フリをする。
そんなヌバタマはよく
僕の夢に出てくる。
普段無口なヌバタマも
夢の中では饒舌だった。
でも、あくまでそれは
夢の中だけの話だ。
その日も僕はヌバタマに話をした。
勿論、夏生の事だ。
秘密だとは言っても、
猫に話すくらいは許されるだろう。
ベッドに寝転んだまま
魂が抜け出る程長い溜息をついて、
僕はひとりごとみたいに言った。
「夏生に呼び出されてさ。
……告白されたんだ」
ヌバタマはまるで
話を聞いているみたいに
一瞬面倒臭そうに
オレンジ色の目を片方だけ
開けた後、ウンウンと頷いた。
ただ単に眠たくて
舟を漕いでいるだけかもしれない。
いつもの事だ。
僕は構わず続ける。
「妊娠したんだって。
お父さんになってって言われたよ」
ヌバタマは一度
頷きそうになった後、
そのまま動きを止めた。
慌てたように細い目を見開き
僕を二度見する。
──え。やっぱ、言葉解るの?
「にぃやあぁぁぁ〜」
威嚇しているのと勘違いしそうな
物凄く低い唸り声をあげた。
いつも閉じているように見える
細い目を目一杯開けて僕を睨む。
何だか責められてるみたいだ。
「僕には勿論
心当たりがないんだけどさ、
夏生が僕にだけそれを
相談するんだから何とかして
あげないといけないよね?
僕は男だもん」
自分自身へ言い聞かせるように
僕は言った。
僕の話が気に入らなかったのか
ヌバタマは台所の格子窓の隙間に
体を捻じ込ませ、
プリプリお尻を振って
出て行ってしまった。
まるで穢らわしいモノを
祓うかのように
ぶっとい尻尾を左右に
ピンピンと振りながら。
「なんだよ。冷たいな。
見捨てるのかよ」
僕は途方に暮れながら
おばさんが夕飯に
呼びに来てくれる迄の束の間、
ウトウトと眠った。
遠くで微かに雷鳴が聞こえた。
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