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 その夜。僕が荷物をまとめていると、ドアをノックする音が聞こえた。 「はい? 誰ですか?」 「夜分にすいません、大江です」  ドアを開けると、大江君がにこにこしている。 「すいません、長谷川さん。今ちょっといいですか?」  声も態度も穏やかだが、何故か有無を言わせない雰囲気があった。僕は仕方なく彼を部屋に招き入れた。 「それで? こんな時間に、何の用?」 「これを見て欲しくて」  と大江君が取り出したのは、一冊の手帳だった。……見覚えのある物だった。 「──これを、どこで?」 「湖のほとりです。中津さんの遺体を見つけたの、俺なんですよ。通報して警察が来るまでの間、そこらをうろついてたら、これが落ちてました。……これ、中津さんのですよね?」  確かにそれは中津の手帳だった。大江君は手帳をめくり、一番新しいページを開いた。「11時、Sと会う」というメモがあった。 「この“S”って人物。あなたですよね、──長谷川信夫(しのぶ)さん」  大江君は静かに、しかし確実に斬り込んで来た。僕は抵抗を試みる。 「佐藤まことのSかも知れない」 「マコさんは違いますよ。トランスジェンダーなのか異性装者なのか判りませんが、少なくとも身体は男性だし、中津さんも女性扱いはしていなかった。二人で会うことはないでしょう」  ──そう、マコはいつもレディスのファッションで決めているが、男性だ。それで中津にはよくいじられていたりもした。 「中津さんは女性のいない呑み会には来ないし、サシ呑みも女性としかしない。俺の見たところ、セクハラじみたこともしてそうですね。女好きだと言われてましたが、あまりたちは良くない」  大江君の口調には、ほんの少し嫌悪感がにじみ出ている。 「そして、中津さんが持っていたという薬。あれは自分で酒に入れてトリップしていたと言われてましたが、薬の存在を知っていたのは女性だけでした。……合わせて考えると、あの薬のもう一つの使い方が見えて来ます」  ──怖い、と思った。この美しい青年が。でも、目が離せない。 「女性とサシ呑みする時にあの薬をお酒に入れて、女性に飲ませる。前後不覚になった相手を無理矢理に──」  思い出させないで。僕が“僕”にならざるを得なかったきっかけを。 「女性陣のほとんどが薬のことを知っていたということは、被害者はかなり多い筈だ。多分皆口をつぐまされた。お金を積まれたか、それとも……」  大江君は僕のカメラをちらりと見た。中津の荷物には、これより多くの撮影機材がある。 「……もっとひどい手段を取ったか」  そう、あの男のせいで、僕は女である自分を呪ってしまった。女性らしい服装も言葉遣いも出来なくなった。他の人には取り繕って「私」と言うけど、内心は「僕」だ。親が血迷ってつけた「信夫(しのぶ)」という名前も、今は女らしくなくて気が楽だ。 「ホテルの従業員以外に、中津さんの部屋に入ったのはあなただけだ。荷物を置きに行った時に、薬をこっそりくすねたんでしょう。夜に会いに行った時に、逆に中津さんに薬を盛った。前後不覚になった中津さんを湖に運び、ボートにでも乗せて落ちるように仕向けた。夜になって霧が出始めたから、外に出てもあまり目立たなかったでしょうね」 「いくら中津が小柄でも、僕は女だよ。一人で意識のない男を運べるとでも?」  彼の前で取り繕ってはいられなかった。精一杯の反撃をしてみる。 「あなた一人だと、誰が言いました?」  反撃は、いとも簡単に流された。 「昨夜は女子会だということで、あなた以外の女子は大野先輩の部屋に集まっていました。それは、今回中津さんのターゲットとなった人物──小園さんを足止めする為でしょう。中津さんは明らかに、彼女に目をつけてましたからね」  そう、中津は僕に小園さんを自分の部屋に連れて来るよう命じていた。目的は明白だった。彼女は女子会に参加するので今夜は代わりに、と僕が申し出たんだ。 「自分達と同じ被害者を出さない為に、女性達は手を組んだ。薬についての証言をしたのもそうです。あるいは、中津さんにいじられ続けていたマコさんも加わっていたのかも知れませんね。二人もいれば、運ぶのも楽だ」  ……思い出す。僕とマコ、そして女子会をこっそり抜けて来た多田さんの三人で、中津をボートまで運んだ。わざとバランスを崩すようにボートに乗せ、二人はすぐに戻ったが、僕は奴が沈むまで見届けた。  僕の痛みや苦しみが、共に霧の湖に沈んで行くことを願いながら。 「でも、霧のせいで、手帳を落としたのに気づかなかったのはマズかったですね。拾ったのが俺で良かったです」 「何が目的?」  僕の問いに、大江君はきょとんとした顔をした。 「目的?」 「お金? それとも、体とか?」 「ああ……そういうことじゃないですよ。実を言うと、今まで話したのは俺より頭の切れる先輩の受け売りでして。真相が合ってたかどうかを確かめたかっただけです」  大江君は手帳を僕に手渡した。 「俺も実は、性犯罪者はとっとと死んでくれって主義でしてね。──そういう被害に合うのは、女性ばかりではないんで」  僕は思わずまじまじと大江君の顔を見た。大江君は少しだけ微笑んだ。彼もまた、誰かの欲望にさらされて来たのだ。恐らくはその美貌のせいで。 「最後に一つ、うかがいます。……あなた方は今回小園さんを守りましたが、真実を知っても彼女はあなた方に感謝しないかも知れない。それでもいいんですか?」  彼の言いたいことは、何となく判った。でも、それに対する答えは一つしかない。 「かまわないよ。彼女がどんな娘でも、傷つくよりはマシだから」  大江君はにっこりと笑った。 「なら、俺はこれ以上何も言うことはありません。真実は霧の湖に沈めてしまいましょう」  そして彼は、部屋を出て行った。僕はそっと、渡された手帳をカバンの一番下にしまい込んだ。
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