序章

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序章

副島さん、と声をかけられて顔を上げると近所に住んでいる女性、神崎さんが私の顔を覗き込んでいた。 「図書館は一度午前で閉まるわよ。仕事熱心なのはいいけど休憩してらっしゃいな」 腕時計を見ると、なるほどもう昼過ぎである。仕事の資料を探しに朝から図書館に入り浸っていたのだが、まさかそんなに経っているとは思わなかった。すみません、と慌てて荷物をしまっていると神崎さんは独り言のように話をつづけた。 「この図書館も使っている子が少ないから…このあいだ越してきた外人の女の子と副島さんくらいしか普段使わないのよ。最近の子って図書館で勉強しないのね。…そういえば、このあいだ越してきたその外人の女の子、家族の姿見たことないから一人で暮らしているんだと思うわ、副島さんの近くのマンションらしいから気にしてあげてね」 ほらあの地方都市にしては無駄にきれいなマンション、と言われてようやくわかった。大学在学中ほとんど下宿先から帰ってこなかったせいでマンションが建ったことを知ったのも最近だ。 「午後もまた来て頂戴ね」 まるで中学生か高校生の扱いだ。 地元でライターの仕事をする、と言ったとき両親はあまりいい顔をしなかったが、小さい図書館の受付をしている神崎さんだけは喜んでくれた。大学受験の勉強中たまに自習室にこっそりお茶を持ってきてくれたり、息抜きに話し相手になってくれたりしたいい人だが、その時の記憶で止まっているのだろう。 コンビニのイートインでサンドイッチを頬張り、図書館に戻ろうとすると、黒い喪服のような姿の女の子がこちらに向かって駆けてきた。 「あ――」 どいて!といわれるよりも先に衝突し、抱え込むような形で転がった。 「すみません!」 慌てて女の子は立ち上がって駆けていった。栗色の髪の毛に同じ色の眼、おそらくさっき神崎さんが言っていた女の子はあの子なんだろうなとぼんやり考えながら見送った。 立ち上がって埃を払い、歩き出すと同じような髪の色をした女性が駆けてきてすれ違った。その時はお母さんと喧嘩したのか、なるほどなと納得した。私も中学生くらいの時は母親と大喧嘩して恥を顧みずに町を爆走した。 「あれ?」 お母さん? 神崎さんの話だと越してきた外国人の女の子は家族といなかったはず…? それでも引っ越したあとからお母さんが来た、とか事情ってあるよね、と自分に言い聞かせて図書館に戻った。 「神崎さん、また自習室使わせてもらいますね」 「はいはい、副島さんお帰りなさい。記名はちゃんとしていってね」 地元の新聞や郷土資料の類を集め、しんと静かな自習室に広げる。大きな会社に属しているわけじゃないから得意な蔵書による調査も捗るものだ。 夜七時になってもう閉館ですよと声をかけられたので外に出た。そういえば家族みんな旅行に出かけちゃってご飯自分で用意しなきゃいけないんだっけ、面倒だなと頭を掻きながら鍵を探していると後ろから「あの」と女の子の声がした。 「昼間は、すみませんでした」 振り返ると昼間ぶつかったあの子が門の外に立っていた。 「ううん、いいですよ。お母さんと喧嘩?」 訊ねてから(あ、まずかったかな)と思った。個人の事情に踏み込みすぎた。しかし女の子は真っ青な顔でいえ…と呟いて、 「少し、話いいですか?」 と言った。あまりにも意外な反応で驚いたが、大変な事情があるとみて思わず「うち入っていいよ」と声をかけた。 女の子はエリーザベトと名乗った。日本人にはきっと慣れない発音だから、リジーとかリズとかで呼んでほしいと言った。 「最初は別荘に住んでいたけど兄が就職してからは離れて住む場所を時々変えているんです。幼い頃はドイツに住んでいました」 リズは淡々と幼い時分の記憶を遡って説明してくれた。 実父が亡くなってからずっと誰かから追われる生活をしていたこと、危険だからと養父母に引き取られたこと、兄はその養父母の家の子で自分にとても世話を焼いてくれていること。 「それで、今でも追われてるんだ。昼間も追いかけられてたみたいだし」 「はい、でも……」
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