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「まぁ綺麗になって──」
私は得意先の奥さんの家に仕上げた洗濯物を届けに来ていた。
「こちらこそ、いつもご利用いただきありがとうございます。セーターなんですが、裾がほつれていみたいで、母が、かがっていると申していました」
「まぁご丁寧に…」涙ぐんだ奥さんは、渡したセーターの入った袋を大事そうに抱きしめた。
「これ…主人の形見なのよね」奥さんは洗濯に出すときと同じことを言った。「昔のカシミヤだし、いいものだから、捨てられなくて……。もったいないから、息子が着てくれたらいいのだけれど」
「息子さんにとってもお父さんの思い出なんです、きっと大事にされますよ。──揮発性の洗剤を使っています。すぐ着ない場合でも、袋から出して、防虫剤を入れてから保管して下さい」
私は注意点を手短に説明する。
「まぁご親切に。本当にありがとう。──アヤちゃん、ちょっと待っててね」
奥さんはびっこを引きながら台所へいくと、大きなリンゴを三つほど腕に抱えて戻ってきた。
「青森の実家から毎年送ってくるの。蜜が入っていて、この辺りのスーパーでは手に入らないわ。持って帰ってちょうだいね」
「いいんですか?」
「いいのいいの。一人じゃ食べきれないし、逆に持っていってもらえると助かるわ。──ところで、アヤちゃんは何年生になったんだっけ?」
「来月で高三になります」
「まぁ、もうそんなになる。それで、進路は? 」
「まだ決めていません。多分、地元に残るかと……」
「それがいいわ、そうなさいよ」
奥さんは数年前に旦那さんを亡くしてから独り暮らしをしていた。
旦那さんとの間に息子さんが一人。その息子さんは母親を残し、遠く離れた東京で仕事をしていた。
雪降る田舎町の独り暮らしは、想像以上に苛酷だ。足場が悪い冬場は特に外出しにくくなる。足の悪い奥さんは尚更だった。
『わざわざチェーン店じゃない、個人経営のうちの店をご指名くださるんだ。それも高いクリーニング代を払ってね。これくらいはサービスしないと』と、母親は口癖のように言った。
家は四十年前からクリーニング店を営んでいる。一人娘だった母親が祖父から継いだ店を切り盛りしていた。
奥さんの家を出てから自宅兼、店のある商店街へ戻る途中、土手沿いの道を歩いた。
日陰が多い道は残雪が多く、深い轍ができていた。しゃばしゃばの道を、一台の軽トラックが通り過ぎてゆく。
ふと道端に青色が目についた。
よく見ると轍の中にマフラーが落ちているではないか。
先程、トラックが通り過ぎたばかり。しゃばしゃばの泥水中に、マフラーが沈んでいた。
春先はよく落とし物が見つる。
落としたそばから新雪が降り積もるから、気がついて探しいったときは、すでにれ手遅れだ。
大概、春先になって、濡れ鼠になったところを発見される。それが新聞や雑誌などの紙類なら半分溶けた状態で見つかる
帽子や片方だけの手袋は、死んだ動物みたいになっているから、誰も拾いたくないのだ。
持ち主が通っても、以前の姿とは様変わりしているから自分の物だと気がつかずに通りすぎてしまう。
たとえ気がついても、よほど大切な物でもないかぎり、捨て置かれるのだ。
だが、落とし物の運命はこれだけじゃなかった。
雪が完全になくなり、道が乾くと、落ちていた物も同じようにカラカラに乾く。
ぺちゃんこになって道路に張り付いている。既得な誰かがごみとして捨てるまで、無惨な光景を晒すしかないのだ。
このマフラーも、恐らく同じ運命をたどるに違いないだろうと私は思った。
黒いランドセルを背負った男子児童とすれ違った。三人が三人とも長靴を履いている。
轍に溜まる雪解け水をじゃびじゃびいわせながら歩く。
ゴジラが列をなして行進するみたいに。津波を起こし、轍の雪を崩し、ダムを作って、それを決壊させてみたり。
男の子っていつの時代も同じことをするものだ。自分の小学生時代を振り返り、あの頃と大差ないなと思うのだった。
不意に一人の男の子があの沈んだマフラーを、それも、手袋を履いたまま掴んだ。
持ち上げたマフラーから雑巾みたいに茶色い水が滴り落ちている。
「きったねー」もう一人が言った。
私も思わず顔をしかめた。
わぁと叫んで、マフラーを振り回す。水しぶきが飛び散る。
もう一人が悲鳴をあげる。
パッと離して、私のコートにべちゃりと当たった。
「ちょっと! なんてこと! 洗濯どうしてくれんのよ!」
洗濯屋の私が思わず叫んだ。
小学生たちは走って逃げていく。
私の足元に、落ちたマフラーが伸びていた。
雪がちらつき、灰色の雲が広がる。
風向きが変わり、寒い北風が吹いてきた。
急に気温が下がった。空気が冷たく、しゃばしゃばの道ががりっとした音に変わる。
水気を含んだ青いマフラーも死後硬直みたいに凍り始めた。
「しかたない、これも何かの縁かもしれない」
自分でも年寄りじみたことを呟いたと思いながら、配達に使った店の袋に、マフラーを入れた。
「ただいま」
山田クリーニング店のロゴの入ったガラスドアを開けた。
アイロン中の母親が顔を出した。
「お帰り、奥さんどうだった?」
「うん、元気そうだった。春になったら毛布、取りにきてほしいって」
母親は分かったとうなずいた。
「そうそう、りんごもらったよ。青森の美味しいりんごだって」
スーパーの袋をかざす。
「そう、ありがたいね」
「ねぇコート洗ってもいい?」
「泥はねかい?」
「まぁそんなところ、あとマフラー拾った」
「マフラー? 店の前に落ちていたのかい?」
私は一通り事情を説明する。
「なら、落とし主は見つからないわけだ。どうする? 捨てるのかい?」
「洗ってみようかな」
袋の中でマフラーから滲み出た茶色いが、行ったり来たりしている。それを見た母は呆れた表情を浮かべた。
「洗うって、アヤ、そのマフラー素材はなんだと思う?」母親は袋の中を見ながら言った。
「ウールじゃなさそう、アクリルかな? それに手編みだよね」
「そうだね。おまけに油を含んだ泥水だ。高価なドライ溶剤より、一点洗いの、水洗いの方がいいよ。あんたが自分で洗うんだったら、洗い場を貸してあげてもいいけど。ただし、油を含んだ泥水に浸かったんだからね、臭いは取れないし、色も風合いも元通りにはならない。安物の糸なんだし、そこまで手間と時間をかける必要があるかどうかだ」
まぁやってみるのもいいと母親は言った。
私はさっそく洗い場のたらいを持ち出すと、給湯器から一肌のお湯を張った。作業着等を洗う弱アルカリ性洗剤を溶かし、マフラーを沈めた。
湯の中でマフラー全体に洗剤が行き渡るよう振る。後は浸け置くことにした。
夕方、得意先から父親が帰ってきた。袋一杯に白衣が詰まっている。
手際よくポケットを掃除し、洗濯籠へ入れる。
明日の朝一番に洗う分だ。
このところ客足も伸び悩んでいた。父は工場や病院を回り。母の染み抜き目当ての固定客で、なんとか食いつないでいた。
しかたがって、バイトが雇えるほど儲けはないから、週末の受付けの手伝いと、たまの配達はもっぱら私の役目だった。
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