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「そうなんですか」  言及するのもどうかと思った。ただ、この言い方じゃあ、まんざらでもないのだろう。いくら上司とはいえ、男が気があるのに頻繁に飲みに付き合ってるということは、彼女も気があるということだ。  寝取りはしない。と理性ではブレーキをかけていたとしても、それはあくまで理性の問題だ。それとは別に本能が存在する。 「黄色い線の内側にお下がりください」  彼女は黄色い線の一歩前に立っていた。でも下がろうとはしなかった。自分が落下することはないという根拠のない自信があるのだろう。  一歩下がる私とは違うのだ。彼女は。  彼女は一駅先で下車した。私は真っ暗に染まった窓の外の風景を眺めていた。時々疲労しきった女の顔が見えたが、それからは目を逸らした。  なんて酷い顔をしているのだろう。この世の絶望を見たような、そんなありふれた文句がお似合いの顔だ。  別れたくなんかない。  でも、相思相愛じゃない関係なんて健全じゃない。  わかっているのだ。私が彼にすがってるだけだということくらい。  彼がほしい。彼のすべてがほしい。恋愛は、そういうものじゃないのか。  欠けているものを求めるものじゃないのだろうか。何が不健全なのだ。何が依存だ。  ふざけている。ふざけているわ。人ことをそうやって決めつけて、彼だって愛情があるに違いないもの。  そう、だから別れないに違いない。そう、信じなきゃ、壊れちゃう。  たった三駅先の距離がいつもより長く感じた。  うちに帰って、私はテレビをつけた。くだらない番組を見て、くだらないから笑った。   こうしているときのほうが、気持ちが楽だ。何も考えない時間はなんて愛しいのだろうか。  晩御飯はコンビニで購入したお弁当で、チューハイを一杯だけ開けた。桃の味の安い缶チューハイ。  ぷしゅ、と音と香る人工的な桃の香りはどこか懐かしさを感じた。そういえば、彼も桃の味が好きだったなと思い出す。  座椅子に胡坐をかいて弁当を食べながら、Twitterのタイムラインとテレビを交互にみる。  チューハイが半分くらい減った頃、彼から着信があった。 「今何してる?」  優しい彼の声だ。思わず顔がほころんでしまう。 「今晩御飯食べてる。コンビニで買ったの」 「珍しいね。いつも自炊するのに」 「たまにはね」 「そういえば、今日会ったらしいじゃん」   うん。とつぶやいた。
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