6-1

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「マルボロ?」  って読むの? 後ろの方から、ぼそぼそと、怠惰な様子の声が聞こえる。浅野は三矢に背を向け、ベッドに腰掛けていた時だった。もうあの人は眠っただろうと見越して着替え、ポケットから煙草の箱を取り出した。豆電球だけ点けていて、ベランダに出ようと考えていたら、掠れた声が聞こえてぎょっとした。振り返ると、ゆっくりと瞬きをする三矢が、じっと煙草の箱を見ている。 「何? 煙草のこと?」 「いつから吸ってんの?」 「だから、たまに悪さしてるだけっつったろ」 「いつから悪さしてんの?」  やけに追求してくることに、浅野は少しだけ驚いた。 「何それ尋問?」  揶揄するように言うと、三矢は浅野から視線を逸らす。 「いや、もういい。寝る」  浅野に背を向けた三矢は、きっとまだ眠っていないだろう。もう一度ポケットに煙草を戻し、小さく息を吐いた。いつから悪さしてんの? いつからだったか、中学生の頃、母親が置いていった煙草に初めてライターで火を点けた。一箱無くなるまでは続け、空になった箱をゴミ箱に捨ててから、しばらくはそんな気は起きなかった。それから、それから。いつからだっけ? 思い出そうとしたものの、いつかの夏休みだった気もするし、そうでなかった気もする。酷く昔のように曖昧でもあるし、そうでない気もする。  この会話をしたのも、昔話のようにも感じるし、つい先週のようにも思い出せる。ただ、境界線は曖昧だ。  思い出が交錯する瞬間、浅野はいつも砂になる。  拳にめり込んだ物体の感触が、関節に残った。この感覚は、いつまでたっても苦手だ。その直後、見知らぬ男が砂の上に激しく擦れるようにして転がった。人が倒れてる、他人事のように感じた後でようやく、自分が殴った相手なのだと気付いた。地面に這い蹲っているのは数人、無傷で突っ立っているのも数人居た。その中の一人が浅野に向かって来る。屈んで躱し、地面の砂を掴んで相手の目元に向かって投げ付けた。反射的に掠れた声を上げて目を閉じた相手の顔面に、浅野は自分の拳を叩き付ける。おかしな声を出し、その男は仰向けに倒れた。  立っていた内の一人が走りながら向かって来て浅野の顔を殴り、もう一人もまた殴り掛かって来る。何で痛くねえのかな、一瞬だけ脳裏を過ぎった後、すぐに結論が出た。砂だからだと。また砂に変わってしまった。  マルボロ? そう聞いた、あの人の声を思い出した。  煙草吸いてえなあ、頭の中ではまた別のことを考えていて、未だに殴り掛かって来る男の、急所を掠める程度に腹部に一撃を入れると、男はその場に沈んだ。未だに立っている人間は居た。まだやるの? もういいだろ。考えたものの、相手は浅野を妙な目で見ている。怯えているようにも見えたし、虚勢を張り続けているようにも見えた。  とにかく早く終わらせたかったのだ。何しろ今日は、いつも行くスーパーでタイムセールがある。こういう日に纏め買いしておいた方がいいからだ。  まあいいか、逃げ出すのも面倒だしそれよりも早く終わらせた方がよほどマシだ。さてどうすっかな早く終わんねえかな、地面に目線を下げると、転がっている男の手首に巻かれた腕時計が見えた。擦れたのか、文字盤が割れている。ちょうど気絶していたからそいつの手首から時計を抜き取った。だらりと手が落ちる。拳に巻き付けると、なるほど早く済みそうだ。 「俺、急いでるっつったよな?」  一応確認は取ってみるものの、返答は無い。いいってことね、浅野は未だに立ち尽くしている男達に向かって走った。砂利を敷き詰めてあるバスケットゴールが置いてある公園、いつも人が居ないのに、今は複数人の高校生が居た。  そこかしこから蝉の鳴き声が聞こえてきて、去年の夏の初めを思い出した。あの人がここでしていたバスケット、俺が今している喧嘩、似通った所は一切無い。じわじわ揺れる夏の温度が、砂利の上からも空気からも浅野の体に絡まった。あの人との曖昧な思い出は記録のようで、浅野と対峙する相手に拳をぶつける度に弾けて消える。  砂、砂、砂、あの人との記録と、流れて行く蝉の鳴き声が交錯した時、一層砂に変化する。  やっぱり早く済みそうだ最初からこうすれば良かった。顎、耳、鳩尾、ちょっとした道具の効果は大きくて、狙って打つと簡単に倒れる。 「洋平!」  元々大した話ではなかった。以前肩がぶつかったとかで当時はその場で絡まれ、数人で簡単に事は済んだ。それ以前にぶつかって来たのはあっちの方で、浅野からすれば擦れ違う程度だったのだ。が、S高の浅野だろ? と言われたような言われていないような、とにかくすぐに済んだ。 「洋平! やめろ!」  今度は人数を増やして彼等は現れた。よりによってこの公園の近くで。またやるのか面倒くせえな、舌打ちをするとこれだ。怪我すんのあんたらの方だろ? タイムセールに遅れるのが嫌だったのだ。鶏肉、豚肉、日頃から使える物が安く、勤労学生には堪らない日だった。しかも俺は最初に急いでるっつったろ、用があるならその場で言え、何の用か聞いてんのに通じねえし、大澤とバイト上がりの朔も呼んで鶏肉ですき焼きっつってた所に。 「洋平! もうやめろって!」  来てんじゃねえよぶっ殺すぞ。 「タイムセール始まってるぞ!」 「あ、やべ」  手の力を緩めると、浅野の足元に崩れ落ちる男が見えた。相手の胸倉を掴んで締めていたからだった。男は地面に這い蹲り、ぴくりとも動かない。スニーカーで軽く蹴ると、唸り声を上げる。もう気絶しているようだ。  腕を垂らすと、掌から壊れた腕時計がずり落ちた。かしゃんと軽い調子で立てた音は、この場にそぐわない玩具のようだ。  額から何かが流れる感触が伝って、汗かと思いきや血だと分かる。制服の袖で適当に拭った時、半袖部分に血が滲んだからだ。漂白、そんなことを考えながら、血の付いた袖をじっと見ていた。 「お前さあ、勘弁してよマジで」 「何が?」  盛大に溜息を吐きながら、大澤は浅野に近付く。彼の髪の毛の色は明るくて、陽の光が当たるときらきら反射する。浅野は目を細めた。 「オレが止めなかったらあいつ死んでるぜ?」 「手加減してるよ」 「嘘吐け」  呟いた彼の言葉に浅野は、辺りに転がった連中を見渡した。どれくらいの力でどの辺りを狙えば気絶するのか、それとも病院送りになるのか。それくらいは浅野自身も心得ているつもりだった。だった、けど。  加減くらいしてる、あの人にも。ふっと息を吐いてから歩き出すと、大澤も付いて来る。お前すっげえ顔してんな、そう言って浅野が笑うと、彼も笑う。おめーもだよ! 大きな口を開けて笑うのが、明るい髪とよく似合っていた。この状態でスーパーなんて寄ったらどうなるのか、一瞬考えたものの、タイムセールの前ではそんな遠慮じみたものは無意味だ。こちとら生活が掛かっている。買う物を頭の中で反芻しながら、今日は鶏肉ですき焼きだったと連中に絡まれる前と同じことを考えた。
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