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「あー、あれだ」話題が見付からなくて、適当に言った。「何?」浅野はテーブルに肘を付き、三矢を見る。
「そういやお前、ガキ好きなの?」
姪っ子も簡単に手懐けた、そう言うと浅野は吹き出した。変な言い方やめろよ、呆れたように彼は笑う。
「別に普通」
「その割には扱い上手くねえ?」
「そう? バイト先によく来るからかな」
「何やってんだっけ」
「ファミレスとガソスタ」
なるほど。確かにファミリーレストランには子供がよく来るかもしれない。その後また、無言が流れる。無表情のまま頬杖を付いて窓の外を眺めていた浅野に釣られ、三矢も同様に目をやった。そこは酷く晴々としていて、やけにゆっくりと雲が流れている。春の初め、と何の気ない言葉が、三矢の頭の中に浮かんだ。
「そういやお父さん居ないね。仕事?」
浅野の声に、三矢は顔をそちらに向けた。
「ああ、休日出勤じゃね? 普通のサラリーマンっつーか銀行員で、土日休みのくせに家にあんま居ねえなあ」
オレも同じか、三矢は小さく笑った。浅野はただ、へえ、と相槌を打つように言う。
「あの親父とは相当やりあったんだよ」
「いつ?」
「昔、中学時代と高一の時」
「何でまた」
浅野は少しだけ驚いているようだ。この表情はあまり無い。変えさせたのが嬉しくて、得意気に鼻からふっと息を漏らした。
「ちょっとやんちゃしてた時期があって。ほらあるじゃん、思春期っつーか反抗期っつーか。バスケもさあ、どうやっても何つーか中途半端で、ちっちゃな怪我してちょっと出来なくなったら遊んで、あんま勉強もしなくて、訳もなくうるせえって親に反抗して」
そういう時期あるだろ、言うと浅野は、そうだね、と目を伏せる。そうだね、の中の「そう」は、何を指すのか。三矢には分からない。世間話なのかそれとも共感したのか、或いは三矢が思う以上の何かがあるのか。含みを持った言葉の中にある本心がどこにあるのか、それはまだ聞けないでいる。
中学時代の三矢と父親は、顔を合わせる度に言い合いをして、うるせえ! と怒鳴り散らした。口うるさい母親に対する鬱憤を晴らす為だけに。母親は何度も目を潤ませていて、その姿に満腹になるほどの罪悪感を感じようと、謝罪など一度もしなかった。最後は必ず、父親の手が飛んできた。思い返せば飛ばす気持ちも分からなくはない。あの頃は常に苛ついていて、体全体が騒々しかった。柄の悪い上級生に誘われて遊び、絡まれたら喧嘩をして、中途半端に出来る下手にもならないバスケなんて辞めた、と思いつつ未練もあった。その未練を口に出来ないから大声を出した。喧嘩をしようとも声を上げても、その騒がしさが解消されることは無かった。掻い摘んで説明すると、浅野は声を出して笑う。
「あんたにもそういう時期があったんだね」
「そりゃあるだろ誰だって」
酷く楽し気に見える浅野に、何となく目を逸らしたくなる。主導権を握られるのは、あまり得意な方ではなかった。
「まあ、愛情のある暴力を振るう大人が居るのはいいことだ」
「愛情、ねえ……。どうだろ」
「それしかないでしょ、この家は」
「口うるせえだけじゃねえの?」
半ば呆れて言うと、浅野は目を開いた。そして三矢をじっと見詰める。
「贅沢だね」
「え?」
「愛情は贅沢品だよ」
贅沢品? 何が? どこが。聞くことさえままならなくて、口を小さく開けては閉じた。浅野を見て、じっとその真意を測ろうと見遣るも、彼は目を伏せ、緩く笑うだけだった。それからまた、外を眺める。あ、と思った。ただ、あ、と。その続きは分からなかった。ただ、この手を掴まなくちゃいけない、と感じた。掴まないと、今掴んでしまわないと、と。それしか分からなくて、咄嗟に浅野の手を強く握る。離しちゃいけない、掴んでいなくちゃ今。
「何、どした?」
「あー、いや、うん」
「何だよ、したくなった?」
ここはちょっとなあ、と揶揄するように笑われたのが頭に来て、握っていた手を勢いよく離してしまう。
「ちっげーよ! お前は! そういうことばっか考えやがって!」
「いやいや、先輩には負けますよ」
「だからちげえんだって!」
「やめとこうね、嫌われたくねえもん」
三矢は口を閉ざした。嫌われたくないって誰に? オレは別に嫌わねえよ? 浅野から発される言葉を返すには、三矢が飲み込んでしまう言葉がたくさんあった。上手く整頓して並べるのが難しいからだ。距離はこうして近いのに、贅沢品だとか三矢には分からない言葉を時々浅野は喋る。三矢はそれがまだ、未だに慣れない。
それからまた、くだらない話を少しだけして、結局外に出た。あの時感じた、あの手を掴まなくてはいけないと思った理由は、数日経っても分からないままだった。贅沢の意味も、辞書で調べた所で月並みな答えしか出て来ない。「必要以上の金や物を使う・こと」こんなの、浅野が使う言葉とは違う。三矢には、それしか分からなかった。
次は鎌倉駅、というアナウンスが流れ、頭の中が停止した。何で鎌倉、とは結局聞かなかったまま、電車が停車すると降りた。東口はそこそこ混雑していた。ここはいつ来てもそれなりに人は多い。午後七時を回った鎌倉駅は、灯りがそこら中に散らばっていて、夜の匂いなど全く感じなかった。騒々しい場所を三矢は苦手ではなかったけれど、浅野とこの場所に来ること自体が妙な気分だ。二人で夜の街を歩くなど、今までしたことがなかったからだ。しようという気も、そんな約束さえも。
大体東口のどの辺りだよ、小さく悪態を吐いて携帯を取り出した。浅野に掛けると、それはすぐに繋がる。
「はい」
「おい、東口のどこだよ」
「ああごめん、小町通りのとこ」
分かった、と言ってすぐに携帯を切った。小町通りの辺りまで歩くと、デニムのポケットに手を突っ込んだ浅野が立っている。今日はいつもの通り、締まりのない格好をしている。デニムの裾は多少引き摺っていて、古びたスニーカーを履いていた。白のスウェットパーカーに、スカジャンを羽織っている。柄悪い、というのが三矢の印象だ。少しだけ猫背の姿勢から覗く姿が、変わらず気怠く感じる。
「浅野」
声を掛けると、彼もこちらを向いて手を挙げた。そして、こんばんは、と言って目を細める。
「どこ連れてく気?」
「飯でも食おうかなって。バイト代入ったし」
「お! 奢りかよ」
「あんたもうすぐ引っ越しだろ? 前祝い」
浅野は少しだけ背が伸びたように思う。下げた目線が近くなる。三矢の身長はもう、178センチからは伸びないだろう。
「この辺美味い店あんの?」
「俺は好きだよ」
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