1-1

1/1
252人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ

1-1

 今夜鎌倉駅の東口集合で。  三矢がその連絡を浅野から受けたのは、卒業式から二週間経った頃だった。  部屋で引っ越しの為に荷造りをしようと段ボールを広げ始めた所で、急に今夜と言われたことに若干驚いた。いきなりかよ、と言って不満を露わに声を出すと、じゃあ明日にする? 彼はいつも通り放るような口調で、簡単に予定を変更しようとする。待て待て大丈夫、こちらが慌てれば、どっちだよどうすんの、と淡白な調子で一蹴する。変わっていない、こいつは全く変わらない、三矢が彼から学んだことの一つだった。結局、午後七時頃に鎌倉駅東口に集合、という形で纏まる。浅野は特に無駄話をすることもなく、連絡事項を言い終えるとすぐに通話を切ってしまう。じゃあまた、と耳の先に残った声は、相変わらず無愛想だった。  午後七時に間に合うように自宅を出て、江ノ電に乗った。ロングシートが空いていたので、そこに座る。慣れてしまった揺れを心地良く感じながら、茫として外を眺めた。腰越駅を過ぎ、鎌倉高校前駅辺りから延々と海が続いている。七里ガ浜、稲村、極楽寺、長谷、由比ヶ浜、海の景色は続いて行く。その中で、同じ景色はなかった。見える形も色も、電車が進んで行くと同時に変わる。ゴミもあれば、人も居る。騒がしいだろうけれど、三矢には聞こえない。聞き慣れた電車の音しか、今はしなかった。変わって行く景色さえ、電車のスピードに飲まれ、しっかりと臨むことが出来ない。  湘南の海は、グレーと白藍が多いように思う。三矢はその景色を眺めながら、あの卒業式から二週間経ったということが、未だに現実とは違うように感じる。  例えば今のように、ただ海沿いをひたすら眺めている時。砂浜を二人で歩いたあれは現実だったのだろうか、と。どうしようもないくらい好きなんだってさ、あれ嘘なんじゃねえの? なんて。あの時三矢は、夢想していたのかもしれないと、日々が過ぎて行けば行くほど、浅野の淡々とした口調を聞けば聞くほど思う。  卒業式の後、今日までに二人で会ったのは一度だけだった。それは三矢の自宅で、だ。きっかけは、三矢の母親と、その上自分がこの世で一番苦手な姉まで浅野に会いたいと言ったからだ。  まだ高校在学中の頃一度だけ、三矢は浅野に自宅まで送ってもらったことがあった。その時出迎えた母親が、浅野をいたくお気に召したらしい。親子って趣味が似るのか、と考えたら悪寒が走った。心底ぞっとした。当時浅野は母に丁寧に挨拶をし、深々と頭を下げた。初めまして浅野洋平と言います三矢さんの後輩で、と言った。彼女は、頭を上げた浅野を見て、まあー! と感嘆の声を上げた。浅野くん礼儀正しいのね目元が素敵なのね、と声高に、且つ矢継ぎ早に言った。うるせえよ、と三矢が制止すると、浅野の方が三矢を宥めた。その様も気に入ったのか、母親からの噂を聞きつけた姉の楓まで、会わせろと言い出した。この姉が、また非常に手強い。厄介だ。突然何を言い出すか分からない、言うなれば自分を女王様だと勘違いしている女だった。三矢は過去、それなりに悪さをしていた。中学時代と高校一年の頃はやんちゃな時期があった。姉は当時の三矢に「今のあんたかっこ悪、やり方ダサっ!」と、平然と言った。更に三矢が連れて来る友人や当時付き合っていた彼女を平気で値踏みする。「あんたの彼女ブスだね」とこきおろした時には三矢も噛み付いた。その姉も数年前に嫁に行き、三矢は胸を撫で下ろした。せいせいしたと思っていたのに、子供を連れてしょっちゅう帰って来る。姪っ子は小さくて可愛いけれど、姉は別だ。という経緯があり、特に姉には絶対会わせたくない。  後日、浅野に電話をして聞いた。会いたいって言ってんだけど、と。三矢は、断れ! と思っていた。めんどくせえって言え今こそ! と念じた。が、その祈りは通じることなく、特に逡巡した様子もなく、いいけど、と返って来るのだった。その上、お母さん綺麗だったね、と付け加えるのだ。三矢さんってお母さん似じゃねえ? と聞いた。知らねえよ、と返したものの、それってオレの顔がいいって言ってんのと一緒だろ、と内心歓喜してしまう。しかし、三矢は口籠った。憶測するに母は浅野のこういった、押し付けるような褒め方ではなく自然な会話で女性の気分を上げさせることを気に入ったのだと思う。  仕方なくその週の週末に約束し、昼食も終えた頃に浅野はやって来た。彼はいつも市営住宅で着ているようなくたびれたパーカーとスウェットは着ていないし、誰かに貰ったという可笑しな柄シャツも着ていなかった。外に出ると大概履く薄汚れたスニーカーやビーサンではなく小綺麗なスニーカーで、それなりに真面目に見える格好でやって来る。三矢は目を疑った。誰お前、そう思ったけれど言わなかった。そして出迎えた母親と姉プラス姪っ子に、それはそれは爽やかに挨拶をするのだった。 「お久しぶりです。お姉さん、初めまして。浅野洋平です」 と。しかも手土産付きで。誰お前、また口から出そうになったけれど黙っておいた。人見知りが終わった姪っ子は浅野に近付き、手土産を覗こうとする。姉が、だめだめ、と窘めるのにも全く動揺も見せず、そこでも浅野は姪っ子を軽々と抱き上げて、名前なんていうの? と言うのだった。こいつは浅野の面の皮を被った別人だ、と本人を前に心底訝しんだ。  その様子を見ていた姉は、姉ではなく女の顔になっていた。こいつダメだ、そう思った。案の定姉も浅野を気に入り、浅野くんと結婚したかった! と本人の前でも平気で言うのだった。浅野はと言えば、俺まだガキですよ、と笑っている。こいつの女性遍歴とか絶対聞きたくない、三矢は心底思った。しかも浅野のこれは多分素だ。素でやっている。その元来備え付けられている才能に、三矢は若干引いた。もっとも、目が恋する乙女になっている姉にもだけれど。 「立ち話もなんだからお茶入れるわ。浅野くんからいただいたお菓子もあるし」母親の言葉に三矢はぎょっとして、益々この空間に嫌気が差した。そもそも顔見せだけのつもりだったのだ。リビングで長々と話すなんて、三矢からすれば論外だ。おい、と浅野に声を掛け、襟元を引っ張った。猫の首の後ろを引っ張るようにすると、浅野も振り返る。何、と小さく言う彼に顎で示して、リビングから浅野を連れ出した。母親と姉から、背後の方で散々文句を言われながら。女性二人のきんきんした声がうるさくて、三矢は両手で耳を塞ぐ。オレは一体何なんだ、三矢は聞こえるように舌打ちをした。  自室に入れば入ったで、自分の部屋に浅野が居ることを酷く違和感に感じた。いつも自分が出向く側だったからだ。どことなく所在ないのか、浅野も黙ったままでいる。やることがない、三矢は息を吐いた。 「本日のイベントはこれにて終了です」 「あ、そうなの?」 「悪かったな、まじで。あいつら騒がしいし」 「いや、楽しかったよ」  お姉さん可愛い人だね。続けてそう言う浅野に、三矢はまた思う。こいつの女性遍歴とか絶対聞きたくない、と。自分なら年上の女性に対し、可愛いなんて形容詞は使えないからだ。年下で、まだ高校二年にもなっていない男が、女子供に優しい辺りがもう狡い。とんでもない野郎だ、三矢はそれを隠すように咳払いをする。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!