天の川を壊せるか

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 スクリーンから光が消え、照明が灯った。エンドロールまで満喫した私は控えめに腕を伸ばして二時間座りっぱなしだった体の具合を確かめる。深刻な問題はない。何か問題があったとしても、面白い映画だったからプラスマイナスはゼロだ。  携帯電話の電源を入れて時間を確認する。まだ十一時半。少し早めの昼食とするか、もう一本何か映画を見るか。 「あの」  美しい声に誘われて左を向く。 「もし、ご迷惑でなければ、一緒にお昼ご飯を食べませんか?」 「……私で良ければ」  強張っていた彼女の表情が綻ぶ。ぱあっという効果音が聞こえてきそうだ。こんなに喜んで貰えるなら、彼女との接点をつくり出した去年の私も浮かばれる。 「どこに行きますか?」 「近くにおいしいパスタ屋さんがあるんです。そこでどうでしょう」 「いいですね。パスタ好きなんです、私」 「わぁ、よかった! きっと楽しんで頂けますよ」  天使のような。女神のような。そう形容するべき笑顔を目の当たりにすると人間はどうするか。とりあえず微笑み返すしかなくなる。  行きましょう、と立ち上がった天使に続いて劇場を出る。 「今年は、忘れ物していませんか?」 「大丈夫です。……たぶん」  不安に駆られて首元を手で探る。マフラーはしているし、コートも着ている。バックも持っている。これ以上何かを忘れるとしたら……ブーツ? まさか。 「ふふ」  歩みを止めて足元を見た私に彼女は再び美しい微笑みを湛えた。これにはルーブル美術館のモナリザも真っ青だろう。本当に私と同じ生物なのだろうか。正直、妖精や天使と言われた方が納得できる。  真白の羽が見えてきた背中を追って辿り着いたのは小洒落たお店。歩道に面する壁は全面ガラス。お客さんのほとんどは昼休憩に訪れた仕事のできる女性、といった雰囲気を纏っている。  ドアを通る際に横目で見たメニューの値段は映画のチケット一枚と同じ。原作を読み込んだり二次小説を書いたり、オタクを満喫している私には縁の薄い贅沢な食事だ。  店員さんとのやりとりを天使に任せて思考に耽る。  なんとなく流されて辿り着いてしまったが、何をどれだけ話していいのだろう。初日に見に来るくらいだから今までの映画の話はできるはず。原作や好きなキャラクターの話も。二次創作は手を出してる? カップリングの推しは? 苦手なものは? BLやGLは? 夢女子? あっ、これ考えてもわかるわけがない。 「お席へご案内します」  柔らかな所作の女性に案内され、席に着く。天使から差し出されたメニューを「ありがとうございます」と受け取ってめくった。 「オススメは何ですか?」 「全部です! なんて言ったら困りますよね。んー……好きなのを選ぶといいと思います。どれも本当においしいので」  その回答は「全部オススメです」と何が違うのだろう。  お冷や──こういうお店では他の言い方があるのだろうが私の語彙にはない──を持ってきてくれた店員さんに、私はジェノベーゼ、天使はカルボナーラを頼んだ。  水をひと口飲んだところで、彼女が口を開く。 「お名前、聞いてもいいですか? おしゃべりする相手の名前を知らないのはちょっと不便で」 「そうですね。お互いに自己紹介しましょうか」  呼びかけるための符号を持たずに会話を続けるのは難しい。「君」や「あなた」と呼びかけてもいいが、彼女にそれらの符号は似合わない。 「じゃあ、私から。花に音と書いて花音(かのん)です」 「藍子(あいこ)です。漢字は、藍色の藍」 「藍子さんかぁ……藍ちゃんって呼んでもいい?」 「はい。えぇと、花音ちゃん、でいい?」 「呼び捨てがいいな。私、『ちゃん』って感じじゃないから」  少し面食らう。花音ちゃんにしっくりきていたから。当人の希望には沿うべきだろう、と多少の違和感を呑み込んで修正する。 「それじゃ、花音」  口にしてみると思っていたほどの違和感ではなかった。何度か呼んでいたら慣れてしまいそうだ。花音、かのん、カノン。  可愛らしい音が彼女の容姿によく似合う。名前負けしてもおかしくない名前なのに、花音の場合は名前が更に彼女を美しく見せている。 「藍ちゃん」 「なぁに」 「呼んでみただけ」 「めんどくさい彼女みたいなことしないでよ」 「ふふ、ごめんごめん」  話題は自然とついさっき見ていた映画の話になる。  あの台詞が良かった。どのシーンの作画がすごかった。好きなキャラは? 去年出てきたから今年は……。長寿作品の宿命ですね。ですねぇ。私の推しは来年かな。予告の声そうだったもんね、おめでと。花音の推しは三年後? 順番通りに来るとは思えないけど、ね。仰る通りです。ふふ。  ひとりで悩んでいたのが嘘みたいに穏やかで楽しい時間が過ぎる。私は、食後のコーヒを飲み干すまで彼女との会話を楽しんだ。  天使のように可愛らしい彼女について知っているのは「花音」という名前だけ。連絡先もフルネームも聞かずに別れた。それが正しい私たちの距離に思えたから。  私と花音を繋ぐのは、たったひとつの約束だけ。  来年も映画館で会いましょう。
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