Mのマフラー

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渋谷のスクランブル交差点の前に立っていた。 信号は、青だ。 今日もまた、いつもと同じ1日が始まるのかと、少し憂鬱な気持ちで、交差点を行き交う人を見ている。 「まあ仕方がない。行きますか。」 と、歩き出そうとしたら、信号が赤に変わった。 「はは。今日もまた、ついてない1日になりそうだな。」 匠は、そう呟いて、大きなため息をついたら、白い息が、交差点の中に吸い込まれていった。 目の前には、忙しそうに歩く人で溢れている。 その顔は、自分なんかより、はるかに自信に満ち溢れているようで、いつもこの交差点を横切る時は、顔を伏せて誰も見ないようにして、小走りに歩く。 匠は、渋谷のCDショップで働いていた。 もう、大学を卒業して7年になる。 始めは、音楽が好きで、いつも音楽に囲まれていたいという気持ちで就職したが、実際の仕事は、上司に指示される雑用ばかりだ。 「コンサートの時期に合わせて、中島みゆきさんのCDを、全部揃えるのも面白いんじゃないでしょうか。」 そんな提案をしてみたいが、言いかけて、相手の顔を見て、冗談だと、その後に付け加えてしまう。 自分と言うものは、一体どこにあるんだ。 匠は、いつも自分の性格に芯というものがないということに悩んでいた。 相手の機嫌を窺うというか、相手の意見に合わせてしまうというか、そんなところがあった。 「そこが、あなたの良いところよ。」 そう言ってくれた、高校時代の彼女の言葉を、今も大事に心のポケットにしまいこんでいる。 あの頃に、スマホがあったら、彼女の言葉を録音しておくんだけどな。 そして、辛くなった時に、何度も聞き直す。 「女々しすぎるやろ。」 そう自分自身にツッコミをいれたが、彼女にしてみれば、もう自分の事なんて、覚えてもいないだろう。 覚えていないということは、もう存在しなくなったということとイコールだ。 存在しない僕。 自分というものは、何なんだろう。 脳みそなのか、或いは、こころとか、魂というとらえどころのないものなのか。 肉体だけは、自分だと言えるのだけれど、肉体だけが自分だとは思えない。 でも、今も生きているのは、間違いがないんだけれどな。 匠は、自分の頬っぺたを軽く手のひらで叩いてみた。 そんな匠が、少し早めに退社した帰り道のことだ。 普段なら、ひとりでも居酒屋に入る。 匠は、酒が好きだけれども、何より食べることが好きだ。 特定の店じゃなくて、その時の気分で入るのが匠流だ。 美味しいアテを見つけた時は、自分がこの世に存在していて良かったと思える、わずかな瞬間でもある。 だけど、その時の匠は、何を思ったか、若い女の子が入りそうな洒落たお店の前に立っていた。 ラケルというお店だった。 「オムライスか。」 匠は、急に口の中がケチャップの味になって、唾液が溢れてきそうだった。 中に入ると、シマッタと思った。 若い女の子ばかりだ。 恥ずかしいという気持ちが手のひらに汗を出す。 匠は、すぐに緊張するのだ。 と同時に、ちょっとばかり嬉しいという気持ちも沸き起こる。 「いやなに、オムライスが食べたくなってね。ここはオムライスのお店ですよね。」 と、ちょっと昔の小説の登場人物のような言葉遣いで、気取って店員に聞いてみる。 言った瞬間に顔が赤くなるのが分かった。 どうにも唐突で、滑稽な質問だ。 4人掛けのテーブルに座ると同時に、隣の4人掛けのテーブルに、ひとりの女の子が座る。 座る時に、匠を見て、軽い会釈をした。 オレンジ色のコートを脱いで、マフラーを、横に置いた。 ひと目で手編みと解るマフラーは、白い色が新鮮で、「M」の文字が、大きく端っこに、赤い糸で編み込まれている。 匠は、そのマフラーが気になって仕方がなかった。 どこかで見た気がしたのである。 隣の席の女の子は、店員に、フレンチトーストを注文した。 「こんな時間に、フレンチトーストかい。」 口に出さずにツッコミを入れる。 すると、そんな匠のこころの声が聞こえたのか、隣の女の子が、「ここのフレンチトースト、美味しいんですよ。」と、匠に声を掛けた。 匠は、たぶん学生だろう彼女に、声を掛けられて、急に胸のあたりの血圧が上がったようだ。 「緊張している。」 そう思った。 「そうなんですね。僕は、オムライスが食べたくなって、初めてお店に入ったんですよ。」 「あ、オムライスも美味しいですよね。」 「よくこのお店には、来るの?」 「ええ、美術館に行った帰りには、何故か甘い物食べたくなるんです。今日も、ホキ美術館に行ってきたんですよ。」 「ホキ美術館?聞いたことないなあ。」 「写実絵画で有名なんですよ。あたし、大学の美術クラブで、写実絵画に興味があるんです。」 「写実絵画、、、。そういえば、以前、どこかで見たことがあったな。でも、写実って、見た目そのまま描くんでしょ。今はさ、カメラとかビデオとかある時代なのに、写実って、時代を逆行してない?」 そう匠が言うと、彼女は、手のひらをグーにして口に当てて、「ククッ。」と、目を細めて笑った。 可愛いと匠は、ドキリとした。 「まあ、そうですね。、、、そういうことにしておきますね。」 と、悪戯っぽく、また両目でウインクをして匠を見た。 「いやいやいや、その意味ありげな『そういう事にしておきますね。』って何なの。それに、その『ククッ。』ってのも気になるじゃない。」 「だから、時代を逆行でいいですよ。」 「いやいやいや、ダメだよ。教えてよ。」 匠は、どんどん彼女の魅力に惹かれていく。 「あの、写真って言うのは、ただ一瞬をフィルムに写すだけでしょ。それも、1つのレンズを通して、平面的にね。だから、写真を見ても、そこに時間も空間も感じないのね。いつか知らない過去の一瞬。そこにあったものを、切り取っただけの風景。人の写真でもさ、風景でもさ、そこに実物を感じないの。魂の抜かれた人っていうか、魂の抜かれた風景なんですよね。」 「ふうん。そうなのかな。じゃ、写実絵画は、違うってことを言いたいのね。えっと、、、あ、名前聞いても大丈夫なのかな。」 「ええ、いいですよ。あたしは、大島怜子って言います。」 「あ、僕は、中村匠って言います。この近くのCDショップで働いているんだよ。」 「CDショップって良いですよね。あ、中島みゆきさんのCDとDVD全部揃えて陳列してください。良いと思うんですよね。みゆきさんのCDが、ずらーっと並んでるのって、気分爽快ですよね。」 「あ、君もみゆきさんのファンなの?実は、僕もそれを提案したんだけれど、没になっちゃったんだ。」 本当は、上司の顔色を窺って、自分から提案をひっこめたんだけれど、彼女の前では、それは言わなかった。 彼女に気に入られたいと思っているんだなと、匠は自分で自分を見ていた。 「そうなんですね。感性の乏しい上司なんですね。これからは、みゆきさんの時代なのが解らないのかなあ。」 そう聞いて、匠は、吹き出しそうになった。 みゆきさんは、もう何十年も、一線で活躍しているんだけどなあ。 言ってみれば、ずっと、ずっと、みゆきさんの時代なんだよ。 まあ、若い彼女には、解らないんだろうな。 そんな彼女が、急に愛おしくなった。 「あ、そうだ。写実絵画だ。写実絵画は、魂が抜かれてないってことを言いたいの?」 「そうそう、そうなの。あたしも写実絵画を見る前は、写真みたいなものかなって思っていたのね。でも、違ったのよ。衝撃的だった。あのね、人間は、二つの目で見るでしょ。カメラみたいに1つのレンズじゃないの。だから立体的だし、作者が、描かれるものを実在していると認識してる訳。それを、一旦頭の中で処理するのね。それからキャンバスに描く訳。だから、そこに作者の頭の中の実在が投影されるのね。だからあ、、、そこに実在が描かれるのよ。実在が描かれたら、そこに実在がね、実在するのよ。どう?」 「どう?ってたって。そうなんだなって思ったよ。」 「ううん。納得してないと思う。」そう言って、怜子は笑った。 怜子は、そのあとも、匠に、実在と非実在について、楽しそうに一方的に喋っていた。 匠は、話の内容よりも、彼女の嬉しそうな表情を見ているだけで、何かこころ踊るものを感じていたのだった。 ひとしきり怜子が喋った後に、店には行った時から気になっていたマフラーについて聞いた。 あれから、思いだそうとしていたが、やっと気が付いたのだ。 いつも出勤する途中の川沿いのガードレールに結び付けられているマフラーに似ているのだ。 白地に「M」のマークの編み込み柄。 それが印象的だった。 道を歩いていると、時に手袋の片っぽとか、靴の片っぽとか、そんなものが落ちていることがある。 それを見ると、匠は、いつも、その持ち主を想像せずにはいられないのだ。 でも、その想像は、ちょっと変わっていて、片方を無くした持ち主は、ひょっとして、もうこの世にはいない人なのではないだろうかと、いつも漠然と考えてしまうのだ。 片方の手袋は、その持ち主の抜け殻のように、ポツリと道端に落ちている。 落ちている手袋は、間違いなくこの世に実在している。 でも、その持ち主は、今どこで何をしているのだろうか。 片方の手袋をした持ち主が、どこか違う空間に迷い込んでしまって、この世界に戻ってこれなくなっているイメージが浮かんでくる。 この世からは、見えない。 それを実在していないというのかもしれない。 非実在の人間。 しかし、非実在の世界があるとするなら、その世界には、実在してるのかもしれない。 また違う次元の世界があるとすればだけれど。 匠は、意味不明なことを考えていた。 そんな匠が、マフラーについて思いだした。 いつも通勤するガードレールに巻き付けられたマフラー。 思い出してみると、もう2週間ぐらい見続けているだろうか。 誰かが落としていったマフラーを、誰かがガードレールに巻き付けたのだろうか。 落とし主に解るように。 或いは、この場所で、交通事故に遭って亡くなった人の形見なのだろうか。 花束を供えるような気持ちで、生前気に入っていたマフラーを、遺族が供えたのかもしれない。 ガードレールの横を通るたびに、そんな想像をしていた記憶が蘇って来た。 確かに、隣に座っている怜子が巻き付けていたマフラーは、あのガードレールのマフラーだ。 「M」の文字が印象に残っている。 しかし、そのマフラーをしている怜子は、誰なのだろうか。 考えられるのは、匠は知らないけれど、有名ブランドの市販のマフラーということだろう。 女の子なら、誰だって知っているマフラー。 市販のものだったら、説明が付く。 匠は、勇気を出して、怜子に聞いた。 「あのさ、そのマフラー。有名なブランドなの?」 すると怜子は、マフラーを一瞬見て、得意げに言った。 「あ、これ?これあたしが編んだの。」 「そうなんだ。でも、「M」って何なの?」 「あれ、解んないの?みゆきさんの「M」よ。だって、ファンだから。」 「成るほど。そういうことね。」 「でも、不思議なこともあるもんだな。同じようなマフラーを、いつも通勤の時に、見かけるんだ。」 「ふうん。そのマフラー見て、どう思った?」 「いや、どうして、ガードレールに巻き付けてあるのかなと思ってたよ。というか、その前に、どこで見たのとか、誰が巻いているのとか聞かない?」 「あ、そうだよね。何となく、どこかに落ちてたのかなと思っちゃったから。不思議だよね。」 「すごい勘が良いんだね。そうそう、通勤途中のガードレールに巻き付けられてたんだ。もう2週間ぐらいそのままの状態でね。誰かの落とし物か、誰かがそこで事故に遭ったとか。そんな想像もしてたんだ。でも、そのマフラーに、そっくりなんだけどなあ。」 「ふうん。面白いね。それも手編みだったの。」 「ああ、手編みだったと思うよ。それよりも、白地に、赤で「M」の文字だよ。偶然にしても、不思議じゃないか。」 「ねえ、そのマフラーの持ち主、あたしだったら、どうする?」 怜子が、匠を試すように聞いた。 「あたしだったらって、マフラーを、外出するときは、首に巻いて、家に帰る前に、ガードレールに巻く訳なの。そんなの変でしょ。」 「じゃ、マフラーが2つあるとかさ。1つは、あたしが巻いて、1つは、ガードレールに巻き付けてあるの。」 「何の意味があって、そんなことするの。それも変でしょ。」 すると、怜子は、両手を頭の上にクロスして乗っけて、「うーん。」と言いながら、唇を尖がらせる。 薄いピンク色のルージュが、怜子の唇の色と錯覚しそうなぐらい透明感があって、若い女の子でしか表現の出来ない色気を感じる。 匠は、その唇を、じっと見つめていた。 すると、怜子は、頭に乗っけた腕を、バタンと膝に落として、「なあんだ。詰まんない。」と、悪戯っぽく笑った。 「お兄さん、想像に面白味がないよ。このマフラーはね、手編みなの。それで「M」の編み込みがしてあるの。こんなマフラー、他に探してもないよ。だから、ガードレールのマフラーも、同じマフラーなの。それを、今あたしが巻いてるのっ。」 「じゃ、君は、どうして、そのマフラーをして、ここにいるのよ。それに、ガードレールに、どうして巻き付けるのよ。」 匠は、本当に不思議だった。 或いは、怜子に、からかわれているのか。 その反応を見て、怜子は、嬉しそうに続けた。 「あのさ、お兄さん、ガードレールのマフラーに触ったことあるでしょ。」 唐突に変な質問をした。 そういえば、1週間ぐらい前に、そのマフラーが妙に気になって、手に取って、Mの文字を見たことがある。 しかし、どうして、その事を、怜子は知っているのだろうか。 「あ、ビックリしたでしょ。だから、その時にね、あたしと繋がったのよ。マフラーに触った瞬間、マフラーの持ち主のあたしと繋がっちゃったの。解る?」 怜子は、前かがみになって、匠の前に顔を出して、覗き込むように下から見つめた。 「どうして、知ってるの。見てたの?」 「だから、あたしのマフラーだって言ってるの。」 「意味わからないよ。」 「やっぱり、想像力がないなあ。例えば、あたしが死んじゃってるとは思わない?実はね、告白しちゃうけど、あたしは、あのガードレールの横の川で自殺したの。その時に、あたしが、ガードレールにマフラーを巻いたのよ。だから、ガードレールのマフラーは、今あたしが巻いてるマフラーと同じなのよ。」 「面白いことを言うね。じゃ、今の君は、実在していないってことなのね。ここにいるけど、実在していないのね。」 匠は、やけくそ気味で聞いた。 「そうだよ。」 怜子は、静かな口調で答えたので、冗談なのか、どうなのか分からなくなる。 「じゃ、実在しているか、してないか、君に触ってもいい?」 「きゃー、お兄さん、エッチーっ。」怜子は、お店にいる他の客がビックリするほどの声で、ケラケラと笑った。 一斉に、周りの女の子の客が、僕に注目したじゃないか。 「頼むよ。恥ずかしいじゃないか。」そう小声で怜子に言った。 「でもね、あたし気が付いたの。あたしが生きてるとしたら、それって実在でしょ。それで、あたしが死んじゃったら、実在しないじゃない。これって、非実在でしょ。でも、あたしは、ここにいるんだよ。死んじゃってるのに。だらからさ、気が付いちゃったの。人間はね、実在してる人と、実在していない人と、そんでもって、実在もしていないけど、非実在でもない、そんな人がいるの。実在しているような、していないような、そんな状態っていうか、そんな人がね。それが、あたしなのよ。どう、偉いでしょ。エッヘン。」 怜子は、嬉しそうに、胸を張って見せる。 「それじゃ、詰まりは、幽霊ってことなんだね。ヒュードロドロドロってやつだ。」 「もう、全然、人の話聞いてなーい。」 今、隣にいるのが、幽霊だとしても、怖がりの匠でさえ、怖いと思わないのだから、ホントは、幽霊ではないのかもしれない。 しかし、隣には、確かに怜子がいる。 その怜子が、実は、死んでいるのであっても、僕の脳の中で、確かに怜子がいると認識しているのなら、それは、間違いなく実在であるはずだ。 たとえ、今、怜子が消え去って、肉体が消えても、隣に怜子がいると僕の脳が認識したら、それは実在だ。 詰まりは、死んでいる、生きている、肉体がある、肉体が無い、そんなことは、実在しているかの判断には、関係ないのかもしれない。 実在していると認識した瞬間、実在は、完結するのだ。 匠は、そんなことを考えていた。 「もう、あたしの話を聞いてくれないお兄さんは、あたしにとっては、実在してないと同じだよ。」 怜子は、今までにない笑顔になって、半分声を押し殺しながら、身をよじって笑った。 それからは、もう実在非実在の話はしなくなって、ずっと、中島みゆきさんの歌について喋り続けた。 「やっぱり、お店に、みゆきさんのCDは、全部置いて欲しいなあ。」 「わかった、じゃ、明日でも提案してみるよ。」 そう言って、2人で店を出て、そこで別れた。 それにしても、不思議な出会いである。 しかも、可愛い女の子だ。 匠は、別れてから、次に会う約束をするのを忘れていたことに気が付いた。 でも、何故か、また会えるような気になっていたのである。 その帰り道、ガードレールまで来て、少しばかり驚いた。 マフラーが無い。 誰かが、外して、ゴミとして処理したのだろうか。 或いは、やっぱり怜子がしていたマフラーは、ここにあったマフラーだったのだろうか。 不思議な気持ちで自宅に帰る。 そんなことがあった、翌日。 匠が通勤でガードレールまで来た時に、ハッとした。 マフラーが、巻き付けてある。 匠は、そのマフラーを、ゆっくり解いて、手に取ってみた。 排気ガスで少し汚れたマフラーに、くっきりと赤い「M」の文字がある。 やっぱり、怜子のマフラーだ。 匠は、そのマフラーを、自分の首に巻き付けて歩き出す。 このマフラーが、また怜子に会うための仕掛けのような気がしたからだ。 怜子の話が本当だとしたら、今この世界に怜子は実在しない。 その実在しない怜子に、匠は、どうしても会いたいと、焦るような気持ちで歩いていることに、匠自身気が付いていた。 怜子に恋しているのだろうかと自問していた。 でも、そんなことは、どうだっていい。 怜子に会いたい。 巻き付けたマフラーと、首の皮膚の間に、汗が滲んでくる。 匠は、ほとんど走っていた。 焦っても、そこに怜子がいるとは思えないのだが、焦っていたのである。 匠は、急に足を止めた。 渋谷のスクランブル交差点だ。 信号は、青だ。 青だけれど、立ちすくんでいた。 目の前を、入り乱れて横断する人間が、匠には、実在しているのか、実在していないのか分からなくなっていた。 この中の半分が、実在してなかったら、さぞかし歩きやすそうだな。 そんなことを漠然と考えていた。 いや、怜子の様に、実在しているようで、実在していないのかもしれないな。 昨日の話を思いだして、ひとり笑った。 でも、誰も気が付かない。 いや、目の前にいる人間は、すべて実在していないのかもしれない。 すべては、僕の脳が作り上げた幻想だ。 そう匠は、考えだした。 そう考えると、急に目の前の人間が消えて、誰もいない交差点が見えた。 ハッと我に返って、誰もいない交差点に飛び出した。 「キキーッ。」 急ブレーキの音が聞こえた気がした。 身体が、何か硬いものにぶつかる衝撃を感じた。 全身に走る痛み。 目を開けると、信号は赤に変わっていた。 それで、自分は、車に轢かれたのだと気が付いたのである。 温かい血が、腹から流れているのが解る。 もう、ダメなのかもしれない。 そう思って空を見上げたら、怜子が匠を覗き込んでいた。 そして笑いながら、匠に言った。 「実在しない世界も楽しいよ。」 「そうかもしれないな。」 なんとか、怜子に言葉を返す。 匠は、自分が死んでしまうのかもしれないと思う恐怖よりも、怜子に会えた嬉しさを感じていた。
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