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第一話 わたし、無職になる
神は人の敬によりて威を増す 御成敗式目
昭和78年。
その日、山は騒がしかった。禽獣とは異なる気配がしたのだ。だから久しぶりに“ ”は目を覚ました。
――守らねば
祠の屋根は雨漏りがひどく、晴れた日には日差しが直に差し込んでくる。観音開きの扉の片方は、とうの昔に板が腐ってどこかへ消えてしまっている。
花瓶がわりに置かれた牛乳の空き瓶には、元は花だったのだろう、干からびた植物の茎が幾本か差してあり、そよかぜが吹くたびにカラカラとわびしい音を立てる。
供え物はなにもなく、ただ、かつて菓子が置かれていたと思しき名残が汚泥のように石造りの土台にこびりついている。
――守らねば……
――守ら……ねば……
“ ”は再び眠りに就こうとしていた。
*
「ああ! もう! 何が売り手市場よぉ!」
藪をかき分けて細い獣道を登りながら、智子は叫んだ。
神道学科を卒業して、当然のように就職できると思っていた神社に片っ端から落とされ、仕方がないから糊口をしのぐという名目で受けた一般企業にも片っ端から落とされて、彼女は今や憤怒の化身となっていた。
「痛った!」
八つ当たり同然に手近な樹木を蹴り飛ばした途端、智子は顔をしかめた。足元に目をやると、短パンの下のむき出しの脛に青あざができている。
もぉ、ついてないぁ、と言葉が出かかったのを、しかし智子は飲み込み、胸を張って一人のたまった。
「いや、日本には七万社もの神社がある。きっとどこかにわたしの運命の神(ひと)がいるはず!」
智子は数年ぶりに岐阜県の寒村にある実家に帰っていた。別に両親の顔を見に来たわけではない。就職しない間、ぶらぶらしているうちに単に金がなくなったためだ。
実家から少し離れたところにある小さな山。
智子は幼い頃、誰も足を踏み入れないその山を「ひみつきち」にしていた。両親に怒られたり、いやなことがあったりするそのたびに、智子は標高五〇メートルもない、その名もなき山に登り、一人で時間を過ごしていた。そうすると子ども特有の忘れっぽさも手伝って、やがて気分がすっきりしてくるからだ。
そして今日、智子は三つ子の魂百までを地でいくように、ほとんど無意識裡にリュックを背負い、再び小山を登っていた。
「あれ、ここって……」
不意に藪が開け、数メートル四方ほどの小さな平地が広がった。
こんなところがあったんだ……。
日溜まりを築いている平地の真中には、小柄な智子よりも少し高い程度の鳥居が、よろめくようにかろうじて立っている。苔むして傷んだ細木でできたそれは、柱が左に傾ぎ、さらに片方外れた貫が、さながら通行止めのように斜めに地面に落ちていて鳥居の下を潜ることを阻んでいた。
鳥居の向こうには一メートル四方ほどの祠があった。一体いつ頃から打ち棄てられているのだろうか。ボロボロに朽ち、いたるところに穴が空いた切妻屋根。腐って片方が抜け落ちた観音開きの扉はぽっかりと口を開いているものの、うっすらと射す日差しに翳っているため、中の様子を伺い知ることはできない。
「廃祠(はいし)……かな……?」
普通の人であれば、あまりの不気味さにまともに目を当てることすら厭うほど荒れ果てた祠だった。
しかし智子は鳥居の前で軽く頭を下げると、貫を手で退かし、臆する様子もなく祠へと歩んでいった。
「おじゃましまーす!」
軽く柏手を打った後、智子はそのまま祠の扉の向こうへと頭を突っ込む。
智子の頭の中には物の怪が怖いという概念がない。なぜなら彼女は、元よりの能天気に加え、大学の神道学科をきちんと卒業した、自称、「本物」の巫女だからだ。
たとえ単位がギリギリであったとしても、神職の資格は彼女の中で常に燦然と輝いている。天が味方すれば、もしかしたら宮司にだってなれるかもしれない。彼女にとって神職の資格は無敵の象徴なのだ。
「御神体がある……」
暗がりの中、殿舎の奥に細長い桐箱がひっそりと置かれていた。木箱の蓋には紙札で封が施されており、時を経て紙焼けしてはいるものの、それが破られた形跡もない。
「む、むむ」
智子は飛びかかる寸前の猫のようにらんらんと目を輝かせ、首を左右に傾けながら、ためつすがめつ、ありとあらゆる角度から舐め回すように御神体を見つめる。
「ふうむ」
上体を祠に突っ込み、腕を伸ばして桐箱を持ち上げる。さすがに封を破ったりはしないものの、御神体は想像よりも重く、斜めに傾げると中でゴロゴロと音がする。柔らかいような硬いような不思議な手応えだ。
だが、さもありなんとも智子は思う。そもそも神社の御神体というものは、変わったかたちの樹木だったり、石だったりすることを智子は知っていたからだ。
ひとしきり調べ終え、好奇心を満足させると、智子はあらためて祠全体を見回した。石造りの土台に供えられたものは何もなく、ただ歳月にくすんだ牛乳瓶の中に、花弁も落ちた枯れた茎が幾本か挿してあるだけだった。
まだ生きてる祠なのに。
「神さま、かわいそう……」
腐り果て、ぽつねんと立ち尽くしている祠を見やり、智子は悲しそうにつぶやいた。
そうだ。
智子は背中のリュックを下ろすと中から水筒を取り出した。牛乳瓶の中の茎を捨て、水筒の水で瓶を洗うと、改めてそこに水を注いだ。汚れた石台を丁寧にタオルで拭い、次いでタッパーから切った果物をいくつか取り出す。
バナーナァ、リンゴォとネイティブっぽい発音でひとりつぶやきながら、智子は水の入った瓶と葉っぱに載せた果物を神前に供え、柏手を打った。
「ねぇ、あなたはなんていう神さまなの?」
智子はぽつんと声で問う。
返ってくるのは静寂だった。どこか遠くでチチチと小鳥の囀る声だけが辺りに響いている。
「また来るね!」
祠に向かって声をかけ、くるりと踵を返しかけると、しかし智子はやおら向き直り、祠の前で再び柏手を打った。
「就職できますように! なるべくでっかい神社で! ブラックじゃないところで! お手当がよくて! 宮司はイケメンで!」
途端、携帯電話が鳴った。母からだ。
『神社から合否の連絡あったわよ』
「神さま!?」
智子は弾かれたように顔を上げ、祠を見つめた。
『落ちたって』
「なんでよぉ!」
*
その晩、智子は夢を見た。
天は灼熱に赤く染まり、波打つ大地より雷の嵐が吹き上がる。風は空気を切り裂く甲高い音を伴って荒れ狂う。そこでは世界そのものが圧倒的な悪意となり、智子を傷つけ、苦しめようと試み続ける。
しかし、その中心で智子は泰然と構えていた。
彼女を守るものがいたからだ。
「それ」は圧倒的だった。それは地平線をも超えてなお大きくうねり、雲を超えていよいよ高く、ときに怒涛のように荒れ狂いつつも彼女を包み、彼女を案じ、そして励まし、絶えずその身を守り続けていた。
それは智子のため、ときに苦しみの叫びを上げる。かたや「それ」が牙を剥くたびに、悪意もまた悲鳴を上げる。
智子は敵味方とも飛び散る血飛沫に、全身を朱に染めながら、それでも胸を張って悠然と聳えていた。
智子はそれに全幅の信頼を置いていた。それに対する彼女の思いはもはや信頼を超えて、一つの信仰として確立していた。
それは、智子の――
*
果てしなく長いような、瞬きに過ぎないような、混沌たる時間が過ぎた。
「ん……」
ふと目を覚ますと、頬に陽光が当たっていた。
あれ。
起き上がって智子はふと気づいた。
「消えてる……」
昨日、樹にぶつけて青黒く腫れていた脛のあざが跡形もなくなっていた。
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