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第12話 死者の影は角を曲がる
「――……!!」
息を詰めて縮こまるアレシュを、ミランの腕が抱く。
どっ、と風と砂がふたりの身体を打つ。
冷たい。
ミランの分厚い軍用外套が、しんしんとした冷気をアレシュの頬に伝えてくる。
それだけが妙にはっきり感じられた。
爆発は一回で終わり、すぐに辺りの大気は落ち着きを取り戻そうとし始める。
しばらく息を詰めてから、アレシュはうっすら目を開けた。
「――これ、は……」
周囲は埃と砂で白く霞んだままだが、アレシュの鋭い目はすぐに周囲の大体の様子を把握する。
舞台の上はすっかりと荒れ果てていた。
重い書架はほとんどが倒れて中身を床にぶちまけ、シャンデリアは粉々になって辺りに硝子の欠片をまいている。
闇に沈んだ隅のほうから、ルドヴィークがすっと立ち上がった。
「ふむ。なかなか物騒な登場をする方々ですな」
楽しげに言い、ルドヴィークはアマリエを隠していた袖無し外套をばさりと開く。
動きからして外傷はなし。
倒した机の陰で片膝をついただけで、さっきの爆風を防いだようだ。
カルラは、と思って見ると、彼女は伏せてすらいない。髪のひとすじも乱さずに突っ立っている。彼女の周囲と背後の棺だけは埃ひとつかぶっていないせいで、過去の景色と現在の景色をつぎはぎしたような、奇妙な光景が出現している。
そんな彼女の目の前の壁には、嘘のような大穴が空いていた。
「カルラ・クロム=ガラス! 観念しろ、魔女め!」
「よくも……よくも、俺たちの仲間をぉ!」
穴からどっと押し入ってきた男たちが、銃やら鉄製の縄のついた刃物やら護符やら、様々なものを手に大声でわめく。
どうやら彼らはカルラの手で物理的・呪術的に封印された正面玄関を避け、隣の建物の屋根から、呪術と爆弾を駆使して劇場の壁を崩し、進入したものと見える。
お前らが壊した壁の下に、さっきまで生きていたお前らの仲間がいるぞ――と、いう言葉はそっと呑みこみ、アレシュはミランの下から這いだした。
「ミラン、逃げるぞ」
アレシュが囁くと、ミランは埃と砂で真っ白になった外套をはたきながら顔をしかめる。
「カルラ姉さんを置いていくわけにはいかんだろう!」
「うん。逃げるのは僕だけだ。お前は僕とカルラの盾になってくれ」
「あいかわらず真顔で屑の台詞を吐く男だな……!」
「自分に正直なんだ。まあ、カルラに盾は必要ないだろうけど、お前は盾役が好きだから」
小さく笑い、アレシュは頭を低くしたまま舞台の隅のほうへとにじり寄る。
半円形に湾曲した壁には、ペンキで描かれた扉が十ほどもずらりと並んでいた。舞台装置の、開かない扉だ。……少なくとも、素人にはそう見える。
「しかし」
ミランはまんざらでもない顔で反論しかけた。
その背後で、カルラがどこか場違いなのんびりとした声を出す。
「よかった。私、待ってたの。あなたたちみたいな、生きてても死んでてもだーれも気にしない、どうでもいいひとたちが来るのを。ね、私にランドルフの復讐をさせて? 私、愛と同じくらいに復讐が好き。復讐してる間は、寂しくないの」
カルラのしなやかな両手が開かれる。
そこにはなんの呪具も薬もなかったが、襲撃者たちは色をなくして叫んだ。
「術を使われるぞ! 喋らせるな、キリア! 煙を炊け!」
「死ね、魔女め!」
襲撃者のひとりが、懐から筒状のものをカルラに投げつける。
筒はカルラの足下に転がると、端からしゅうしゅうと煙を出し始めた。
アレシュはとっさにてのひらで口と鼻を覆い、扉のひとつにすがった。体重をかけ、ひと思いに押し開く。
すると、書き割りにしか見えなかった扉が外へ開いた。
扉の向こうは、暗く狭い下り階段だ。
この抜け道は、昔カルラと付き合っていたころと変わっていない。
「アレシュ、待て! ひとりで逃げるな、逆に死ぬぞ!」
過保護なミランの声を背後に聞きながら、アレシュは階段を駆け下りる。
最初の踊り場につくと、板戸を降ろした窓に取りつく。
ゆがんだ板戸をどうにか引き開けて、隣の建物の外階段へ飛び移った。
カンカンカンと音を立てて外階段を降りきると、ありきたりな集合住宅の玄関に出る。
周囲に見張りの気配は――ない。
アレシュはほっとして、玄関扉から石畳の街路へと逃れ出る。
「どうにか無事に出られた、みたいだな」
アレシュが小さくひとりごちて劇場と集合住宅を見上げていると、ミランとルドヴィークが追いついてきた。
「いやはや、さすがは魔女の住まい。なかなか物騒なところでしたな。――おっと」
ルドヴィークが笑ったまま頭上を振り仰いだ直後、めきり、と劇場にヒビが入り、がらがらと壁の一部がはがれ落ちる。
すかさずルドヴィークが黒い外套の裾を翻し、その陰で仕込み杖を抜いた。
銀光一閃。
次の瞬間には、細かに刻まれた壁の残骸が雪のようにアレシュとミランの頭上に降り注ぐ。
「お気をつけください。まだ魔女が暴れているようだ」
ちりん、と音を立てて刃を鞘に収め、ルドヴィークはにっこり頭上を指し示す。
その先の壁には大穴が空き、何か巨大なものが何本も生えて蠢いていた。
「ああ……やっぱりあれ、まだ使ってるんだ」
アレシュがぼそり、とつぶやくと『あれ』はぎりぎりと軋みを立てて動き、集合建築の壁に爪を立てた。
それは一言に何とも言い難い。
巨大な蟹か、海老の足が、数百倍に膨れ上がったようなもの……といえばいいのだろうか。大人の男の一抱えほどあるそれには、人差し指ほどの長さの棘がびっしり生えそろっている。
一度突き刺されば体がズタズタにされるであろうそれが、複雑怪奇な関節で折れ曲がり、蠢き、どすどすと壁をくまなく突き刺しているのは、なかなかに壮絶な光景だ。
ミランは目を限界まで見開きてつぶやいた。
「な……なんだ、あれは……?」
「カルラの使い魔だよ。元は猫だったんだけど、年々進化してああなった」
アレシュが投げやりに言って歩き出すと、ミランがすごい剣幕で追いついてくる。
「猫!? よりにもよって、猫だと? カルラ姉さんは全世界の猫好きを敵に回す気か!」
「なんならお前がカルラの代わりに猫好きに謝って回ればいいんじゃないかな。――ごめん、みんな。ちょっと通してくれるか?」
使い魔の大暴れのせいで、道には見物人が集まり始めていた。
いくら変わったことが日常の百塔街でも、カルラほどすっとんきょうで凶悪な使い魔を使える魔女は他にいない。
(とりあえず、あれが落ち着くまでカルラに協力は頼めないな。彼女に占ってもらえば、色々簡単だと思ったんだけど)
次の方策を考えながら怪しげな住人たちをかきわけているうちに、アレシュはふと、懐かしい香りをかぎ取った気がして顔を上げた。
視界の端を、ちらと赤い髪がかすめる。
(――え?)
あまりに思いがけない事態に、アレシュは我知らず棒立ちになった。
視線だけで赤い髪のほうを見る。
赤い髪の青年は、やじうまたちの間をすり抜け、緩やかに歩いて行く。
骨張って痩せた身体を黒い革できっちりと覆い、そのうえにばさばさの赤い髪を揺らしている。百塔街にはやまほどいる、ひねて不健康そうな若者の典型といった姿。
いくら視線で追っても消えない、その姿は。
「カルラさんのためとなればやぶさかではないが、猫好きというのは世の中には山ほど居てだな、俺が謝っていては日が暮れるどころか七門教のいうところの終わりの日が三回くらいやってくる計算だ。もちろんまともに計算したわけではないが――」
「サーシャだ」
「……何? 今なんと言った、アレシュ」
低くなったミランの声は、やけに遠くに聞こえた。
アレシュはいつになく真剣な面持ちで、道行く人々をかきわけ始める。
「サーシャだ! サーシャが居たんだ。普段見えるような透けてるやつじゃなくて、もっとはっきり、生きてるみたいな……おい、サーシャ! 僕だ、アレシュだ!」
「ばか、アレシュ! サーシャは死んだと何度言ったらわかるのだ! 他人のそら似だ!」
「そっちこそばか言え、見た目は似せられても、匂いで僕がだまされるもんか!」
つかんできたミランの手を振り払い、アレシュは駆け出した。
ぐねぐねと蛇行する石畳の角を、サーシャが曲がっていくのが見える。
あの先は古式ゆかしい、実力派の呪術師たちが軒を連ねる魔法小路だ。小路ではそこここで誰かの魔法が発動していて、不用意に入りこむと幻が見えたり、どうしても先へ進めなかったり、うっかり魔界へ出てしまったりする。
あそこへ入りこまれたら、またサーシャを見失ってしまう。
あのサーシャが何者でもいい。
とにかく見失うことが怖かった。捕まえたかった。
アレシュは全力で道を曲がる。
「サーシャ!」
声を限りに叫んだ、その叫びがわんわんと響き渡る。
――露天ので、こんなに声がこもるものだろうか?
おかしい、と思う前に、アレシュの目の前は真っ暗になっていた。
「……っ!」
足下に石畳の感覚がない。
どこもかしこも暗い。
まるで暗い巨大な穴に放りこまれたようだ――そう思った途端、急激な落下の感覚がアレシュを襲った。
落ちる。
落ちる!
耳元で風が鳴る。
上着の裾がばたばたとはためく。
重力に逆らえない。
誰かの魔法に取りこまれたのだ。おそらくは幻術。
落ちているというのは錯覚。それでも、術中にいれば身体も心も『自分は落下中だ』と思いこむ。早く術中から脱しなければ、本当に落下死するかもしれない。
(香水……!)
胸のハンカチにしみこませた『樹海の底にて』の鎮静作用で、多少の幻術からなら覚められるはずだ。
風の抵抗にどうにかあらがい、胸を探って、アレシュは青ざめた。
(しまった、カルラに渡したままだ!)
ひやりと全身が冷える。
やっと、やっとサーシャに手が届きそうだったのに。
あともう少し生きていられたら、彼に訊けたのに。
どうしてお前は死んだんだ? と。
「サーシャ……!」
「はい」
不意に澄んだ声がして、日向のような匂いが漂う。
一瞬遅れで落下が止まり、アレシュは自分が人間の体温に包まれていることに気づいた。
「……?」
ミラン、ではないだろう。明らかに体温が違う。
ルドヴィークでもない。カルラでもない。
ならば誰だ、と顔を上げた途端、辺りの闇がすっと消え去った。
黒い布が引き上げられたかのように、真っ赤な百塔街の空が頭上に現れる。
色とりどりに塗られた小さな家々の軒先には、呪術に使う道具が看板代わりにかかっている。黒い屋根瓦。見慣れた魔法小路の光景。
唯一見慣れないのは、眼前にせまる男の美貌だ。
特別あつらえなのだろう、白の紳士装束に身を包んだ男が、至近距離でアレシュを見下ろしている。どうやらアレシュは、彼にお姫さまみたいに抱き留められているようだった。
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