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第18話 扉と札
百塔街の一角で『深淵の使徒』が再結成された翌朝。
クレメンテが『街を浄化する』と言い放った期限まであと三日となった百塔街には、そろそろ不穏な気配が見え始めていた。
「クレメンテ・デ・ラウレンティス様は、すべてを浄化なさる!」
「悔い改めよ、呪術を捨てて教会に下る者は、両手を挙げて聖なる名を唱えよ!」
五人ひと組で連れ立った教会兵が、大声で叫びながら石畳の上を歩いて行く。
誰もが長銃を構え、抜け目ない瞳で辺りを見渡すさまは、布教する聖職者というより戦場の斥候そのものだ。
彼らの前に広がるのは、廃墟じみて静まりかえった百塔街。
道行く者の姿は滅多に見えず、空はいつも通りまがまがしく赤い。
「――さすがに申し出てくる人間はいませんね」
ひとりの兵士がつぶやいたとき、頭上で窓が開く音がした。
「上だ!」
すかさずもうひとりがが叫び、空を仰いで銃の引き金を絞った。
ぱりん! と硝子の割れる音。
銃弾が貫いたのは、窓から投げられた硝子瓶であった。
辺りに硝子の破片が降り注ぎ、数秒遅れてもうもうと紫色の煙が広がる。
道に面した窓の奥で誰かがくすくすと笑い、ぱたんと板戸が閉じた。
それが誰だったのか、教会兵たちにはよく見えない。
彼らはすかさず高い襟で口元を覆うと、すぐさま駆け出した。示し合わせる暇もなかったろうに、皆がほとんど同時に煙を避けて路地裏へと入りこみ、しばらく駆け抜けてからばらばらと足を止める。
「……毒霧の類か」
「どうせもっと凶悪な何かだろう。……少し、動くな」
ひとりが鋭く言い、胸ポケットから小さな硝子瓶を取り出す。
その中身をもうひとりの背中に振りまくと、じゅっ、と音が立った。そこには紫色の染みが広がっており、そこからゆうらりと紫の炎が立ち上る寸前だったのだ。
「炎? いつの間に――!」
青ざめる兵士に、もうひとりが空になったガラス瓶を振って見せる。
「もう大丈夫だ。ラウレンティス様ご自身が祝福なさった水は、呪いにはほぼ万能だからな」
「助かった。しかし、これでは本当にらちがあかんな。三歩進めば呪われる」
濡れた背を気にしながら、教会兵は愚痴をこぼした。
他の兵士たちは同情まじりの視線で彼を見やり、低く笑い合う。
「だったら教会に戻るか? この上なく安全ではあるが、ラウレンティス様のとびきりのんびりした説教を聞くはめになるぞ」
「あー……いや。その、あの方は、実に素晴らしい方だとは思うのだが……説教だけは……」
「わかるぞ。聞いているうちに日が暮れるどころか、平気で夜が明けるからな」
「あの方は半不死かもしれんが、こっちはそうじゃないからなあ」
教会兵たちは小さく笑いあい、燃やされかけた兵士の肩を叩く。
「何もかもあと少しの辛抱だ。考えてもみろ、今まではこんな格好で百塔街を三歩歩くことすら不可能だった。なのに今は呪術師どものほうが屋根の下で身を潜め、嫌がらせをしてくるだけだ。ラウレンティス様なら、きっとやってくださる」
「……そうだな。葬儀屋ども以外には組織だった抵抗の気配もないようだし、葬儀屋は損得で動く。このまま行けば意外と簡単に――」
「ちょっと、どいてください」
急に割りこんできた少女の声に、教会兵たちは一斉に路地の奥を見やった。
銃を構え直した教会兵たちの視線の先、昼なお暗い路地に、小さな人影がある。
それは栗色の髪に青緑の、暗い瞳の使用人らしき少女だった。
どう見ても十歳前後の彼女が、巨大な籠に少々不気味な青や薄紅色の巨大な海老を山ほど盛り上げ、教会兵たちをにらんで言う。
「聞こえませんでしたか? そこに突っ立っていられると邪魔なんです。狭い道では紳士が淑女に道を譲るのが当たり前のこと。それともあなた方は、自ら紳士ではなくただの案山子だと認めるんですか。それでもどいてもらいますけど。
そろそろ、時間なんです」
「あ、ああ……すまないな。小さなお嬢さん」
疑わしげな目をしつつも、教会兵たちは彼女に道を空けることにした。
まだ期限までは間がある。さすがの彼らでも、百塔街に住んでいるからと言ってただの使用人を引き立てるわけにはいかない。
この街にだって、罪のない人間もいるかもしれないのだ。
彼女――ハナは、警戒を解かない兵士たちの間をずかずかと通り抜ける。
そのひょうしにかすかな風がわき起こり、ハナの頭飾りが揺れた。
その下にちらと見えた角を、教会兵の目がとらえる。
「……君」
教会兵が声をかけ、ハナに手を伸ばした。
一瞬早く、ハナは全力で駆け出す。
教会兵たちは銃を構え、ためらいなく発砲した。
相次ぐ銃声。
しかしハナの姿は、あっという間に路地の角を曲がる。
「追え! 魔界の住人だ!」
一気に無感情になった教会兵の声が、鋭く響く。
彼らにとって魔界の住人はただの化け物だ。
見つけたら即、狩るのみ。
教会兵たちはそろって全力でハナを追った。
五人は狭い路地に入りこむ。四人までが通り過ぎ、五人目も路地から大通りへ飛び出そうとした、そのとき。
いきなり、彼の眼前で扉が開いた。
「……!?」
違和感に目を瞠り、教会兵が立ち止まる。
こんな扉、さっきまではなかった。
なのに彼は今、確かに扉の中に飛びこんだし、大通りではなく屋内にいる。
眼前にはすり切れたえんじ色の絨毯がどこまでも続き、壁にはちろちろとオイルランプが燃えていた。どことも知れない屋敷の薄暗い廊下だ。
味方の姿は、ない。
代わりに、廊下の真ん中に立っていたやたら厚着の男が、うっすらと笑った。
「『深淵の使徒』のもとへよく来た、と言いたいところだが……ハナさんをどうこうしようという輩だ、少し荒っぽい歓迎になるぞ。――偽りの魂を対価に、深淵よりの客人よ、来たれ!」
叫びと共に、ミランは外套のポケットから数枚の札を抜き出す。
床にばらまかれた二枚の札には、茶色に変色した何か――おそらくは血で、ぎっしりと呪文が書かれている。
次いで投げられた札は床に転がると、先に落ちた二枚の札から漂った生臭い匂いに反応し、ふるふる、と震えた。
「見ろ! 今からここに魔界の門番が召喚される!! 足の端から丁寧に噛みちぎられ、果てしない苦痛の果てに死を夢みるがいい!」
ミランが態度ばかりは堂々と叫び、教会兵は気圧されて一歩下がった。
やったか、とミランが鋭く微笑んだ瞬間、教会兵はナイフを抜いて床に落ちた札に突き立てる。
「あれっ」
ミランが素っ頓狂な声を出して瞬いた。
少し遅れて、どこからともなく鼓膜をつんざく甲高い悲鳴があがる。
悲鳴は謎の廊下にわんわんと響き渡り、やがてすうっと消えていった。
教会兵はやがて、床に突き立ったナイフを無造作に抜き取った。その刀身に彫り抜かれたゼクスト・ヴェルト神の紋章が不気味に光るのを見て、ミランはおそるおそる訊く。
「貴様、まさか俺が召喚した魔界の者を切った……のか?」
「他の何に見えた? 死ね」
「――っ……!」
教会兵が拳銃を抜き、ミランが息を呑んだ直後、がんっ! といかにも痛そうな音がして、鉄の平鍋が教会兵のふくらはぎに炸裂する。
「痛ぁっ!!」
地味な痛さで相手が身をかがめた隙に、ミランは大きく一歩踏みこんだ。
教会兵の髪をひっつかみ、顔面に膝をたたきこむ。
低くうめいてくずおれかける教会兵を這いつくばらせ、どうにか押さえこむことに成功。心の底から、ほう、とため息を吐く。
そんなミランを、平鍋を手にしたハナは冷え冷えとした目で見下ろした。
「ほんとに役立たずですね、このゴミは。切り刻んでも凍って肥料にすらならないだろうし」
「こんなときでも変わらぬ冷徹さがたまらんな。まあ見ていろ、ここからが俺の本領発揮! 俺の完璧かつ残忍な技法で、こいつから必要な情報を引き出してやる!」
「だったらもう少し腕をゆるめないと。気絶しますよ、相手」
「おっ!? しまった、危ないところだったな。ありがとう、恩に着るぞ、ハナさん!」
ミランは喜々としてハナに返す。
教会兵は頭上で繰り広げられる平和な会話を聞きながら、がくりと意識を失った。
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