第6話 階段と扉の多い館

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第6話 階段と扉の多い館

 ――アレシュ。いいかね。お前の母さんは、神の使徒だ。  冷えた真顔で言う父親を見上げ、アレシュは『今、僕は夢を見ているんだな』と理解した。  アレシュがみる夢は数種あって、大体内容が決まっている。  底の見えない真っ暗な穴の中を、どこまでもどこまでも螺旋階段で下って行く夢。  白い花がまばらに咲いた巨木の下で、誰かの顔を見上げて懸命に手を振っている夢。  そして、この夢。  薄暗い地下室で、父親の調香を見守る夢。  この夢の中のアレシュは、冷えた石の床にうずくまったままの傍観者だ。  木製の作業台の上で蝋燭の炎が揺れる。  火影が棚にびっしりと並んだ硝子瓶に映りこみ、瓶の中に薬品漬けの動物がつめこまれているのを照らす。  硝子瓶の中から、死んだ獣の濁った瞳がアレシュを見下ろしている。  蒸留器のしゅうしゅういう音。  片眼鏡を光らせながら、立派な紳士装束の父親がフラスコを振る。  硝子器具の中でぷつぷつと気泡が生まれる。複雑な匂いが辺りに漂う。  脳の芯がくらりとするような不思議な香りを調香しながら、彼は自分の幼い息子に告げる。  ――母さんは素晴らしいひとだったが、残念ながらわたしではなく、わたしの香水に恋をした。わたしは彼女が恋した香水を二度と作ることができなかったから、絶望した彼女は去ってしまったのだ。  そうなんだ。だからこの屋敷には母さんがいないんだね。  父さん。もう一度、母さんが愛した香水は作れないの?  息子の問いに、父は柔らかそうな指先で口ひげをつまむ。  ――作れるとも。わたしは天才だ。もう間もなく完成するから、おとなしくそこで待っていなさい、アレシュ。  揺るぎない父の声に、アレシュは膝を抱えたまま小さくうなずく。  わかった。待ってるよ、父さん。  ずっとずっと、待っている。  ずっとずっと。母さんが神の使徒だなんて信じていたわけじゃないけど、それでも一度、母さんの手に抱かれてみたかったから。  ずっと――多分、大人になった今も、待っている。  もうあなたは死んだのに、僕はあなたの香水が完成するのを待っている。 「……僕、ばかかなあ、サーシャ」  ぼそり、とつぶやいて、アレシュはうっすらと目を開けた。  夢から醒めた後だというのに、視界に映る光景はさっきとさして変わらない。  闇に沈んだヴェツェラ邸の地下室は、魔女の作業室に似てうさんくさかった。だだっ広い石造りの部屋の隅っこには、精油を作るための巨大な窯や抽出用水槽が埃をかぶってうずくまり、壁の三方を埋めた棚には、香水とその原料の入った硝子瓶がずらりと並ぶ。  ちなみにこの硝子瓶、それぞれにつけられた札を知識ある者が見たら恐怖で総毛立つだろう。  ここにあるのは芸術的な魔香水。  そして、香水に劇的な効果を付け加える珍奇な毒の数々なのだ。 「なんで死んじゃったんだろうね、父さんは」  小さくひとりごち、アレシュはのろのろと作業台から身体を起こしてのびをした。  生まれつき鋭い視力で辺りの大体の輪郭は見て取れたが、一応マッチを取って古い燭台に刺さった蝋燭に灯りをつける。  ぼうっと照らされた石壁に映る人影は、自分のものだけ。  父の姿がないことで、やっと夢から醒めたのだと実感できる。  ここを調香室として愛用していたアレシュの父は、数年前のある日、すっかり干からびた姿で床に転がって発見された。  ――あらあら……。多分、自分の魔香水で、魔界からとんでもないお客さんを呼んじゃったのではないかしら。天才だからこその悲劇かしらね。優秀な若いひとが死んでしまうのって、なんだか悲しい。  当時父と付き合いのあった魔女のカルラは、そう言ってぽろぽろ涙をこぼした。  彼女は千歳超えの《使徒》級の魔女だから、多分その見立ては正しいのだろう。  アレシュの父が作っていた魔香水は、そもそも数百年前の社交界で花開いた『毒殺のための』香水から発展したものだ。  あるものは嗅いだものの喉をつぶし、あるものは顔をぱんぱんに腫らせ、あるものはそのまま使用者を死に至らしめる。そんな歴代の有名香水から天啓を受けた父が卓越した知識と調香技術を駆使し、あらゆる法律から自由になれるこの地で完成させた魔香水。  彼は香水の使用者に自分の狙った幻覚を見せるに至り、しまいには魔界の住人をすら惹きつける香りを完成させ――おそらくは、そのために死んだのだ。  父の死後、アレシュは彼の膨大な遺産すべてを受け継ぎ、十五歳でこの館の主となる。現在、アレシュは二十一歳。  この歳になるまで、まともに働いたことはない。  もちろん、調香もしない。 「僕はほんと、色々むいてないからなあ」  小さくつぶやき、アレシュは作業台の上に広げた本に視線をやった。  自分の上半身を丸ごと挟んでしまえそうな巨大な本は、金銀その他、極彩色のインクで手書きされた暗喩に満ちた魔法解説だ。ひとりの時間を多少有効に使おうと父の蒐集品のひとつをひっぱりだしてみたのだが、案の定一ページ読む前に力尽きて睡魔に捕らわれてしまった。 「これじゃほんと、調香室じゃなくて僕の昼寝部屋だよ。……正直、どう思う?」  アレシュは言い、急に自分の横を見やる。  すると、視界の端をちらと赤い髪がかすめた。さっきまでそこにいた誰かが、アレシュの視線に気づいて後ろへ回ったかのようだ。  少し意識を集中してみれば、確かに背後にはひとの気配がある。  誰か、いる。  誰かがこの乾いた空気を呼吸している。かすかな衣擦れ。少しばかりの革の匂い。この淡い気配の主が誰なのか、アレシュはすっかり承知している。 (サーシャ)  アレシュは胸の中で小さく名前を呼んで、仮面じみた顔に穏やかな笑みを載せた。『彼』がそこにいると思うだけで心臓の位置がほんのりとあたたかくなる。この場所にいると『彼』と遭遇しやすいのも、アレシュがここを気に入っている理由のひとつだ。  上機嫌になったアレシュは、あえて『彼』のほうを振り向かず、作業台の向こうの石壁を見つめた。そこには蝋燭の明かりで、机についたアレシュの影が映し出されている。  そう、あいかわらず、アレシュひとりの影だけが。  アレシュは自分の影に向かって、優しく囁いた。 「サーシャ。僕の手で君を蘇らせるのは無理みたいだけど、僕もいつかはそっちにいくよ。そんなに遠い未来じゃないはずだ。その前に――ハナ。まだ生きていて喉が渇いた僕に、お茶を一杯くれないか?」  アレシュが言うと、今度は闇の中で、きぃ、と扉の開く音がする。  続いて横から何かを手の中に押しつけられ、アレシュは視線を下げた。見れば、自分の手の中には何やら見慣れないラベルのついた金属缶が出現している。 「……なんだ、これ。岩塩バター? ――ハナ、僕が頼んだのはお茶なんだけど。大体パンもなしにバターだけっていうのは……え? バター茶? 知らないよ。普通のお茶をくれ。君、一応僕の使用人なんだろ」  アレシュはバターの缶を作業台に置いて文句を言うが、今度はまったく返事が来ない。闇は、しん、と沈黙を返すばかり。  アレシュは仕方なしに辺りをきょろついてみたが、地下室にいるのは自分だけだった。さっきの淡い気配と赤い髪の主も、アレシュにバター缶を渡した者も、どこにもいない。  あるのは気化した蝋の匂いがする空気、ただそれだけ。 「ハナ、本気で僕にこれを飲めと……?」  どうしたものかとアレシュがバター缶を指でつついていると、今度は頭上で、はっきりと扉の開く音がした。
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