第2話 ファースト・ノートは刺激的に

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第2話 ファースト・ノートは刺激的に

「貴様、アレシュ!! 俺の弟分ならもっと早く来い! 俺は思わず大虐殺の覚悟を決めかけたところだったぞ、この――で、――で、――男が! それと念のため言っておくが、俺の頭は階段の踊り場ではない!!」  聞き苦しい俗語連発で相手をののしるミランとは対照的に、司祭は静かに『彼』に話しかける。 「アレシュ……あなたの名はよく存じております」 「おや、そうですか。聖ミクラーシュ教会の司祭殿に名を覚えていただいたとは、実に光栄。ですが、おかしいな。僕はあなたの名を知りません」  くすりと笑って言い、アレシュは闇を下ってきた。  ずっと穏やかだった司祭の顔がわずかにひきつる。さっきまでぽかんとアレシュに見とれていた教会兵や信徒たちも、愕然として前のめりになった。  目で見たままを信じるのなら、アレシュは闇からにじみ出るようにミランの頭上に出現し、濃い闇を階段のように踏みしめながら床へと下りていっている。  その所作は夜会に出席する貴人としか見えぬ優々たるものだが、彼の足下には闇しかない。何かの幻術を使われているのかもしれない。しかし、あまりになめらかだ。教会兵や司祭には、さっぱり術の見当がつかない。  アレシュは大理石の床に降り立つと、軽やかな音を立てて靴をそろえて囁く。 「七門教は大陸全土に浸透していますが、この『百塔街』にはここ三百年ほど現役の教会はありませんでした。この聖ミクラーシュも後任の司祭が決まらずに廃墟同然だったはず。それが活動を再開されるというなら、この街にとって歴史的な出来事じゃありませんか。是非、この僕にも一報が欲しかったな」  そう言ってにっこり微笑んだアレシュを見て、教会中から気味の悪いうめき声があがった。腹の底から勝手に湧き上がるマグマのような感情が高ぶりすぎて体が爆発四散してしまいそうな、それはそれは壮絶に妖艶な笑みだった。    アレシュ。  彼の美しさをどう表現したらいいのかは、この場に居る誰もわからないだろう。  少年のしなやかさを残した二十歳前後の体を華美すぎる紳士装束に包んだ姿は、人間というよりは王侯貴族の好む最高級の宝飾品めいている。  つるりと白い肌はなめらかすぎて硬質な陶器のようだし、絶妙な位置にすんなり通った繊細な鼻筋は稀代の彫刻家が削り出したかのよう。細い煙草を挟む唇は薄情めいて薄く、指には貝を象眼したような形よい爪が並ぶ。  ここまでは何から何まで完璧で硬質なのに、彼の目は、彼の目だけは、どうにも様子が違う。ナイフを入れてすっと横に裂いたかのようなまぶたの下で、真っ赤な瞳がとろける寸前の赤スグリのゼリーみたいにみずみずしく濡れて光っている。その生々しい色を見たとき、ひとは得体の知れない背徳感を覚えるのだ。  一種異様な空気の中、司祭はかろうじて己を立て直し、じっとアレシュを見つめて告げた。 「名を告げる必要はありますまい。あなたは王もなく、法も持たないこの街の実力者のひとりだ。……つまりは、金と人脈を持ってこの街の闇に潜み、この世の条理に反した力を操り、根は善良な人々を闇に引きずりこむ悪党ということです。わたしは聖職者として、あなたのような存在に対抗したいと望んでいます」 「なるほど、お心がけは立派ですが、ちょっと誤解があるようですね。僕はただの美に仕える使徒なんです。実力者だなんてもってのほかだ。下手な気鬱に沈まぬように、日々この街を恋と事件を探して歩いているだけですよ。そうだろ、ミラン?」  アレシュが楽しげに言うと、ミランはむっとした顔で腕を組む。 「ああ、貴様は人間のクズだ。いいのは顔だけ、あとは女遊びしか真面目にやらん! どうせ今日も女にかまけていて俺を助けに来るのが遅れたのだろう? 貴様、不真面目すぎではないか? 一体この俺を誰だと思っている!」 「僕の下僕」 「違う、兄貴!! 兄貴だ、貴様の兄貴分! 貴様は大事なことをすぐに忘れるな。いいか、暗記には反復が効くぞ。いますぐ繰り返せ!! 俺は、お前の、兄貴分!」  無駄にはきはき叫ぶミランに、アレシュはいかにも面倒くさそうな流し目を送った。そんな表情ですら妖艶に見える絶世の美貌で、アレシュはミランの顔に細く煙草の煙を吐きかけてから言う。 「ねえ、下僕。女性を待たせてわざわざ下僕を助けに来る僕、かなり真面目だと思うんだけど。褒めてもいいよ」 「えらい!! それはそうと、本当に今日も女と一緒に居たのか? 貴様はいいかげん、まともに働け!! そもそも貴様の生活というのはなっておらん! なにからなにまでなっておらん! いちから説明すると――おい、どこへ行く!!」  ミランの主張はさらに延々と続きそうだったが、アレシュはふい、と彼から視線をそらして歩き出した。ネコ科の大動物のように音もなく、未だ祭壇前でひざまずいていたひとりの信徒に近づく。  長いヴェールをかぶった、花嫁めいた女性だ。  すっかりアレシュの美貌にとらわれた教会兵や信徒たちは彼を遮るどおろか、さわさわと左右に分かれて通してやった。 「やめなさい、ヴェツェラさん。我々の『儀式』の邪魔は許されません。全大陸のエーアール派を敵に回すおつもりか?」  背後から司祭の声が追ってくる。アレシュは気にせず花嫁の脇に立つと、無造作にヴェールを引きはいだ。 「ああ、やっぱりだ」  あらわになった新婦の顔に、アレシュは煙草をくわえた唇を笑みでゆがめる。  ついてきたミランが花嫁の顔をのぞきこみ、さっと顔色を変えた。 「やはりだ!! アレシュ、魔界の住人だぞ!!」 「どこからどう見てもそうだね。これが、司祭様の言う『根は善良な人々』ですか」  アレシュは言い、赤い目を細めて振り返った。  彼の横では、花嫁がヴェールをはがれたのも気づかない様子でうなだれている。浅黒い肌に波打つ黒髪を垂らした美しいひとだった。彼女の容貌の中で一番目立つのは額から生える二本の黒くねじれた角と、唇から零れる白い牙である。猫の光彩を持つ瞳はもうろうとして、薬を使われているのは確実だった。  ミランは怒りに顔をどす黒くして辺りをねめつける。 「彼女を連れこむところを見て、もしや、と侵入してみれば案の定だ! 貴様ら、魔界の住人を無理矢理とっつかまえたな? 彼らにエーアール派の秘蹟なぞ受けさせたら、死んだうえに魂まで四散する!! これは宗教儀式なんぞではない、殺人だ!!」  高らかな彼の追求に返ってきたのは、沈黙だった。  静寂に満ちた薄暗い教会内で、今度はアレシュが堂々たる声を張り上げる。 「あなた方が無法地帯と呼ぶこの街にも決まりはある。すなわち、外で犯したいかなる罪も、この街の中に入った時点で帳消し。魔界の住人もトラブルを起こさない限り、同じく無罪。ここに外界の法を持ちこむ者は、我々百塔街の人間が全力で排除させていただく。――そして、僕を動かす法はもうひとつ。美しい方は救わねばならない。愛ゆえに」  アレシュは言い、白い指を伸べて女の角をそっと撫でる。  司祭はアレシュの言い分を聞いている間にじわじわと瞳をぎらつかせ、ゆるやかに両手を開いた。 「あなたは狂っている、ヴェツェラさん。どこにあろうと、罪は罪です。ひとが長きにわたって魔界の住人どもに苦しめられてきた歴史は消えません。罪を罪と思わないあなたもまた重罪人です。わたしたちに殺され、神の御許で赦しを乞うべきです。――そうであろう、神の子たちよ!!」  低音の叫びが割れ鐘のように響き渡り、まだ動ける教会兵たちがばらばらと武器を構え直すのがわかる。ミランのまき散らした冷気は、アレシュが登場した瞬間から徐々に薄まってきていた。代わりに酷く暗くはあるが、動けないほどではない。  ミランは彼らを睨みつけると、重い足音を立ててアレシュの前に立った。  華奢な青年をかばうように片手を上げ、低く囁く。 「アレシュ――雑魚はこの俺に任せておけ」 「嫌だ」  あっさり返され、ミランは顔を引きつらせて振り返った。 「貴様……! ここはもう少し感動的な台詞を吐くところだろう! この期に及んで俺が信用できないとかなんとかぬかす気か? 貴様は、弱いのだぞ!!」  懸命に訴えるミランに、アレシュは少し目を細めて微笑む。 「お前は本当にいつまでもこの街の住民らしくならないね。お前が身を挺して僕を守る気満々なのは知ってるよ。だけどお前に任せると美しく片付かないのが、ちっとも僕の趣味じゃない」 「ばかか!! こんなときに美がなんだ!? 俺は符術に関しては天才だし、体術にも長けている。欠点と言えばちょっと冷気の制御ができないのと、あとはせいぜい寒すぎると理性が飛ぶことだけだ!」 「うん、それで、今まで何度理性飛ばしたか覚えてる? 符術は子供だったころの僕にインチキをしかけて見抜かれた程度だし、体術にいたっては僕の書斎で本を読んだだけだよね?」 「本をばかにするな! 俺が読んだのはいい本だったぞ、題名が特によかった。題名は……なんだったかな」  ミランは大真面目に考え始めたが、皆がそれを待っている義理はない。 「進め!! 神の敵を滅せよ!!」  司祭の号令に従い、教会兵たちがはじかれたように動いた。  みなが武器を構える音と、硬質な足音がどっとアレシュたちに押し寄せる。  アレシュは煙草の煙をすうっと吸ってから、短くなった煙草を床に投げ捨てて言った。 「準備はいいかい、下僕」 「愚問だ、舎弟!!」  ミランは怒鳴り、格闘じみた構えを取る。  対照的に、アレシュは優美に胸ポケットからレースのハンカチを抜き取った。 「――おいで、僕の闇」  アレシュは囁き、雅やかな所作でハンカチを宙へ投げる。  敵の何人かはその所作自体に視線を奪われ、酔ってでもいるかのように足をもつれさせた。しかし、ミランだけは正しくアレシュの行為の意味を知っている。 「おいっ、舎弟、いきなりか!?」  叫んでから自分の口を手で覆うミランだが、一瞬行動が遅かった。  鼻先で、やけに生臭い香りがした――と思った次の瞬間、彼の視界はぐにゃりと歪み、急に呼吸ができなくなる。 「……っっ!」  ミランは声もなく叫び、凶暴な不快感に消化器官がいっせいに悲鳴をあげたのを感じた。自分の肺の中からむせかえるような甘い匂いがせりあがってきて、べったりと喉に張りついている。何度も何度も咳きこむが、匂いはへばりついたままだ。  剣や銃を構えていた教会兵も同じ思いをしているのだろう、誰もが冷や汗を垂らして手から武器を振り落とし、己ののどをかきむしって床に転がり、声すら出せずにのたうった。 「いかがでしょう? パルファン・ヴェツェラ、九十番。ファースト・ノートは少し動物的、かつ刺激的に始まります」  あっという間に立つ者がいなくなった場所で、アレシュは小さく首をかしげる。彼はそのまま辺りに視線を滑らせ、床に這った司祭を見つけて笑みを消した。  赤い瞳がらんらんと光を放つ。  肉食獣じみた冷えたきらめきに、司祭は我知らず、ひっ、と息を呑んだ。  アレシュは彼を見据えたまま、ゆっくりと歩みよりながら語りかける。 「僕は昔から不思議なんですが、あなたたち聖職者って、どうして何もかもをひとのせいにするんでしょうね。殺すのは救いだとか、呪術師や魔界の人間だから殺していいとか。――僕は、聖職者のそこが、とっても嫌だ」  司祭はアレシュから視線を外せずにいたが、そのうち奇妙なことに気づいた。己の目を信用できず、何度か瞬き、目を細める。それでも見えるものは変わらない。  アレシュが闇を生んでいる。  彼の黒衣から、黒髪から、にじむように黒が辺りに這い出していく。  そうこうしているうちに、アレシュ自身がその黒に染まってしまった。顔も、体も、何もかもが黒い。まるでそこにだけぽかんと人型の穴があいているかのようだ。そんな闇が、まっすぐ司祭に向かって歩いてくる。  司祭は目をこらす。闇の中にアレシュの姿をもう一度見いだそうと目をこらす。  でも、いない。  ない。  何も、ない。  この闇は、穴だ。虚無だ。人型の穴の向こうには何も見えない。  司祭の視線は虚無の穴の向こうに吸い出されていく。何か嫌な予感がする。  ぐるるるるるる。    獣のうなり声。かしかしという、巨大な爪が石を引っ掻く音。  聞こえるはずのない音が、穴の向こうから、聞こえる。  いつの間にか全身に汗をかいているのに気づき、司祭はどうにか呼吸をしようとした。ねばつく大気を吸いこむと、生暖かい吐息の臭いがして、ざっと全身に鳥肌が立った。  誰の吐息だ。何の吐息だ。  生き物の吐息そっくりの風が、どう、と闇のほうから吹いて、司祭の白髪を揺らす。目の前でぺちゃぺちゃという舌の音がする。  何かがいる。すぐそこにいる。  硫黄の匂いを感じる。  恐ろしいまでの高速で何やらしゃべっている甲高い声がする。  逃げなければ、と思って必死で辺りを見回す。黒い。暗い。黒い。暗い。どこもかしこも暗い。さっきまで人型だった闇が、今は視界いっぱいに広がっている。  司祭は何かを叫ぼうと口を開けたが、声はすべて闇に吸いこまれた。  獣の気配に満ちた闇の中で、くぐもったアレシュの声が響く。 「自分の心は『神様』とやらに預けっぱなしで、自分の意思で殺すことも、愛することもない。だから一生傷つかない。……そんなあなたに、僕は贈り物をしたいと思います。それは、絶望。けっして神の元へ辿り着けない死。得難くて不思議な、人生の宝石」  悪魔。悪魔。何が宝石だ、この、化け物め。  声にならない声で司祭は叫ぶ。  その声を聞き取ったかのように、アレシュの笑い含みの声が囁いた。 「あなたは百塔街で司祭をやりたかったんでしょう? あなたが真の絶望を知ったときにこそ、本当の意味で百塔街の門は開かれる。開いてあげます。死の間際になったら、あなたにもこの街の本当の姿が見えますよ。 ――だから、もう少しだけ、ここで震えて待ちなさい」
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