海の唄

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 海へ行く事が禁じられてから、コウは一日中家で過ごすようになった。思い出すものは、海の事ばかり。抜け切った青空を開け放たれた窓から眺める時も、潮風の匂いが鼻先に踊った時も、そして、夢の中でも。  そんな日々を繰り返し、五日ほど経った深夜の事だった。沈み込んだ意識の底、遥か遠く、深い海から響く唄が聞こえる。博士の言ったクジラたちの、海の唄。何故か呼ばれている気がして重い瞼を開く。隣で眠る父はいびきをかいていて、少しの事では起きそうにない。慎重にベッドから抜け出し、コウは足音を忍ばせ玄関の扉を開いた。そしてあまりの驚きに息を詰める。澄んだ青い瞳、細い金色の髪、痩せた身体────ローアがそこに立っていたのだ。 「ローア」  コウの呼び掛けに返事をせずローアは歩き出した。慌ててその後を追いながら、コウは冷たい横顔に必死で言葉を投げた。 「助けてくれてありがとう」  それが本心なのかは正直分からないが、あの時確かにコウは自らの命を繋ぐ為にもがいていた。それをローアは察して助けてくれたのだろう。ふと気付く。だとすれば、ローアがコウを海の底へと誘おうとした理由は、コウがそれをあの時は心の底から望んでいたからではないだろうか。願望と本能のせめぎ合いを敏感に感じ、ローアは手を引いているのではないか。そこへ辿り着き、コウは身を震わせた。 「君は、どこからきたの」  その問いの返事が帰ってくる事がないと分かっている。けれど問わずにはいられなかった。ローアは歩き続ける。研究所のある西海岸とは真逆の方へ。観光客も眠りについた大通りは、まるで死んだ街のようだ。広い空一面に散りばめられた星々も、不吉に瞬いている。 「どこへ行くの」  心臓が大袈裟に胸を叩く。この先に待ち受ける何かがコウを微かな恐怖と期待で呑み込んでゆく。酷く喉が乾く。息も上がる。一体、今自分は何を求めているのだろう。  やがてローアが足を止めた場所は、観光客向けに開放された東海岸のビーチだった。この島の人々が早朝と夕暮れに掃除をしていると父が言った通り、ビーチにはゴミの一つも見当たらない。変わらぬ美しい海がそこにはあった。ローアは波打ち際に素足を浸し、深い闇夜に呑まれた海を見詰めている。月明かりだけがその横顔を照らし、美しい海の色をした瞳を輝かせている。 「ローア」  胸を圧し上げた衝動が、言葉となってこぼれてゆく。 「僕も、海へ帰りたい」  溢れた涙が頬を滑って落ちた。砂浜の色に似た指先がそっとコウの手を取る。促されるままに歩き出す。サンダルの爪先が波に触れ、また一歩踏み出す。次第に足は重くなり、水に濡れた服が纏わり付く。それでもローアに手を引かれるまま、コウは進み続けた。その先に、何かがあると信じて。  腰までの深さまでくると、ローアはコウの手を離し泳ぎ始める。マスクはないが、躊躇している場合ではなかった。頭から海に飛び込み、恐る恐る瞼を開く。やはり視界は濁り、人間が海から拒絶されているような心地になる。けれど暗く滲んだ世界で必死にローアの姿を探していると、不意にぼやけていた視界がローアを中心に開てゆく。コウは驚きに思わず息を吐き出してしまった。空気を求め顔を上げようとしたが、何故だろう、息が出来る。ここは水中のはずなのに────。驚きに静止したコウを、ローアはまっすぐに見詰めている。月明かりだけの頼りない世界の中、彼だけが輝いてみえる。これは夢なのか。そう疑い出した時、沖からクジラたちの唄が聴こえてきた。それはまるで、コウを歓迎するように全身を包み込んでゆく。泳ぎ出したローアを追って水を蹴る。あれほど重かった身体がまるで浮いているかのようだ。やはりこれは夢なのだ。ならば恐れる必要はない。再び泳ぎ出したローアの後を、コウは夢中で追い掛けた。海と溶け合っている、その実感だけを胸に。  沖へと進んでいたローアは、砂地と珊瑚礁の境界線で動きを止め、そっと砂地に降り立った。コウもまたその隣に着底し、視線の先を追い掛ける。踏み付けられた珊瑚が白くなって転がっていた。観光客が珊瑚を折って殺してしまう事は、この島だけの悲劇ではない。ふと気付けば、辺りの珊瑚は白くなっているものも多い。珊瑚が窒息し死んでしまうことから日焼け止めが禁止されている国や地域もあるが、ここはまだ発展途上。なんの制限もない。美しい珊瑚やそこに息衝く生き物たちを目当てにやってくる人間は、知らずその命を奪っているのだ。言葉にならない切なさを噛んでいると、ローアは死んだ珊瑚を拾い上げ、やさしく両の掌で包み込んだ。するとその掌の中で柔らかな光が生まれ、ちらちらと揺れ始める。ゆっくりと開かれた手の中から飛び立つ細かな光の粒は、静かに海へ溶けてゆく。ローアは目にした珊瑚の死骸をそっと掌で包み込み、そして海へ放ってゆく。次から次へと旅立つ光が優しい波に揺らぎ散り散りになって消える様は、まるで母が海へと還った時と同じようだった。瞼の裏が熱くなり、目頭が鈍く痛む。けれど涙は全て、海が呑み込んでゆく。  母の後を追いたいと願う事を、後ろめたく感じていた。生きる事ばかりが正しいのだと信じていた。自分を置いて命を絶った母の気持ちが分からず、それ故に死を願う事自体を罪と信じ、見ないフリをしていた。けれど命は必ずいつか終わりを迎える。それが突然だとしても、長い長い時の末だったとしても。  無残にも奪われた命を悲観する訳でもなく、嘆く訳でもなく、怒りに震える訳でもなく、ただただ見送るローアの瞳を見詰めながら、コウは母の笑みを思い出していた。母はこの珊瑚たちと同じように、光の粒となって海へと溶けたのだ。幸福な過去に縋るばかりで現実が悲劇だと思い込んでいた。けれどそれが母の願いであり、母の命の終わりは、とても幸福だったに違いない。  コウは海へと溶けてゆく光の粒を見送りながら、深く息を吸い込み、漠然と一度は失った未来を見詰めた。いつか、海へと還るその日まで、この海と共に生きて行こう。胸に空いた大きな穴が、優しく抱かれゆっくりと満ちてゆく心地がした。  唄が聴こえる。命の始まりと終わりを謳う、海の唄が────。 了
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