海の唄

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 幼い頃、全ての命は海から産まれたのだと母は寝物語に教えてくれた。そして、海へと還ってゆくのだと。母は海を愛していた。だからこの国に来て、父と出逢った。コウは幸せだった。母がいて、父がいて、いつでも命の揺り籠である海が傍らに寄り添っていたから。けれど、その母は自ら命を絶った。母の望み通り、遺骨は海へと還した。粉々になったしろい骨が風に乗りやがて静かに海に吸い込まれる様を見て、コウは漸く母の死を実感し葬式でも流さなかった涙を流した。母が本当に遠退いてゆく。そんな気がしたのだ。溶けてゆく骨に向かい、お母さん、そう何度も叫んだ。海は何も答えてはくれなかった。  母と言うかけがえのない存在の喪失は、コウの胸に大きな穴だけを残した。それはまるで底の見えない深海。全てが呑み込まれてゆく。未来も、生きる力も、何もかも。母と共に逝きたかった。海へと還った母の側に行きたい────。  ふと深く沈み込んだ思考が急浮上を始め、うっすらと瞼を開くと、目の前に見慣れた白髭の老人の顔があった。 「コウ、気が付いたか」  何が起こったのか分からず、コウはゆっくりと身を起こし辺りを見回した。ロブの傍らに座り込んだマリアが、声を上げて泣いている。どうやら船の上のようだ。 「良かった……レスキューに状況を説明している時に、ローアが君を連れ戻してくれたんだ」 「ローアが」  掠れた声で問うて、コウは引き摺り込まれるような強烈な感覚を思い出す。あの強い流れの中を、どうやって。再び周囲を見回すと、ローアは船首の柵にもたれ、じっと海面を目詰めていた。どれくらい経ったのか分からないが、何事もなかったかのような変わらぬその姿に、コウは恐怖さえ覚えた。彼はやはり、普通ではない。彼の胸の奥底に自分と同じものを感じていたはずなのに、きっとそれはまるで見当違いだったのだ。何故海の底へと導いたのか。それなのに、何故消えゆくはずの命を掬い上げたのか。青い瞳を思い出し、コウは漠然とした疑問を胸に抱く。彼は一体、何を伝えたかったのだろう。考えれば考えるほど、思考は絡まり合ってしまう。呆然とするコウの肩を優しく撫でながら、ロブは研究員にちいさく頷いて見せた。 「船を出してくれ」  周囲に集まっていた研究員たちが帰港の為に動き出す中、ロブだけは心配そうに付き添ってくれていた。コウは慎重にロブの傷んだ顔を見上げる。 「ロブ。ローアは一体、何者なの」  その問いに、ロブは微かに瞳を細め、コウの濡れた髪をゆっくりとその萎びた手で撫でた。 「海の中で、あの唄を聴いたか」  それがクジラの唄であると察し、ちいさく頷いて見せる。 「クジラはローアと会話しているのだ」 「クジラと、人が」 「皆には言っていないが、私はそう思っている。彼らは唄っているのだ。ローアと共に、海の唄を」  研究者の口から出た言葉とはとても思えない。だが第一人者が混乱してしまう、それだけ不可解でこれまでなかった行動なのだろう。  それきり誰とも口を聞かず、コウはローアを見詰めていた。何事もなかったかのように、彼はただ閑かだった。やがて研究所のある浜に近付くと、桟橋には既に父が迎えに来ていた。民族衣装に身を包んでいるところを見ると、仕事中なのに駆け付けてくれたようだ。桟橋に船が止まり下船すると、父は慌てたように駆け寄った。陽に焼けた顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。 「身体はどこも痛くないか」  この島に日本のような大きな病院はない。未だ医療は脆弱で、日本では治る病や怪我で命は失われてゆく。だからか、父は昔からとても心配性だった。  コウの身体に異常がない事を知ると、父はロブや目を赤く腫らしたマリアに深々と頭を下げ、コウの手を引いて歩き出す。触れた肌の荒い感覚、熱すぎる体温は、父の命と共に脈打っている。  手を引かれるままぼんやりと歩いていると、父は静かに口を開いた。 「コウ、何故博士たちの言葉を聞かなかった。海は決して我々に優しいものではないんだよ。甘く見てはいけない」  分かっているつもりだった。カレントに嵌ったのは初めてだったがその対処法もかつて教えてもらっていたのに、空気を求めるがあまり流れに逆らうと言う一番とってはならない行動を取ってしまったのだ。それは父の言う通り、ラグーンの優しい海に慣れきって慢心していたからに違いない。 「もう調査船に乗る事を許可できない」  父は続けてそう言うと、きつく唇を噛みしめる。 「海にも、しばらく入ってはいけない」  愚かだった事は素直に謝ったが、コウは必死で父に縋った。 「ラグーンならばいいでしょう」 「ラグーンだとしても、危険はあるんだ。コウは海の事を何も知らない」  コウを見下ろす厳しい瞳は、さまざまな色が混ざり合い揺れている。それ以上コウは反抗してはいけない事を悟り、けれどせめてもと曖昧に頷いた。
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