海の唄

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 砂浜に杖をついて歩いていたロブは、研究所から突然飛び出した少年の姿に一度大きな瞬きをすると、足を止めて長い腕を広げた。導かれるようにコウがその胸に飛び込むと、痩せた腕がしっかりとその身体を受け止めてくれた。 「コウ、帰ってきたのか」  ああ、ロブの声だ。その低く枯れた声が与えてくれた輝かしい知識を胸の内に蘇らせる。また彼にこの広い海を教えてもらえる事は、今のコウにとって何よりの喜びだった。 「またあえて嬉しい」 「私もだよ、大きくなった」  抱擁を終えると、ロブは一歩後ろで佇む少年の肩を抱き、コウに向かい微笑んだ。 「コウ、ローアだ。君より少し年下だが、仲良くしてくれると嬉しい」  そう促されコウは少年をまじまじと見詰めた。泳いだのだろうか、肩まで落ちる透けるような金色の髪は濡れている。大きな瞳は何処を見るともなしに彷徨っていて、度々長い睫毛に隠される。随分と痩せているようだ。 「ローア、僕は長谷川光。コウって呼んで」  そう言って手を差し出すと、ローアはコウの白い指先からゆっくりと視線を這わせた。腕を辿り、肩で惑ってようやく視線がぶつかった瞬間、コウは思わず感嘆した。 「綺麗な瞳の色だね。まるで海みたいだ」  薄い瞼のしたの大きな瞳は、文字通りいま目の前に広がる海の色とよく似ていた。吸い込まれてしまいそうな感覚も、海とよく似ている。  コウがその瞳の色に見惚れていると、不意にローアは海を振り返りあまりにも突然走り出した。 「え、ローア!」  コウがそう叫んだ時には、既に彼は青い波の隙間に消えていた。 「どうしたの」  驚いてロブに問い掛ける。白んだ瞳は、海の遥を写していた。 「海が好きなんだ。一日中泳いでいるよ。コウも久しぶりに泳いではどうだ。ローアとの海中散歩はきっと刺激的だよ」 「でも、今は水着じゃないから」 「昔は裸で飛び込んでいたじゃないか」  確かにそうだ。だがまだ、海に抱かれる気分ではなかった。 「また明日にする。明日も来ていい」  ロブが優しく頷いてくれた時だった。研究所の扉が開き、荷物を抱えたマリアが飛び出した。 「ボス、クジラ達が……!」 「今行く」  研究員たちは慌てた様子で次々とボートに乗り込んでゆく。 「コウ、また明日おいで」  ロブはそう言って桟橋に足を掛けるマリアに向かい厳しい表情で声を掛ける。 「ローアが海に入っているんだ、航路にいないか確認してくれ」  二人が慌ただしく会話をしながら桟橋を渡りボートに乗り込む背中を見送り、ふとコウは凪いだ海に視線を流した。丁度息継ぎに出たのか、小さな金色の頭がボートのすぐ脇に浮かぶ。気付いたマリアが声を掛け梯子を下ろすと、ローアは素直に梯子を上がりボートに乗り込んだ。  かつては、コウがあそこにいた。調査に出る船に乗り込んで、デッキから初めてクジラの群れを見せてもらった。変わっていないと思っていたこの場所もまた、時の流れが残酷に押し流している。
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