海の唄

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 知れず肩を落として家へ戻ると、コウを空港まで迎えてくれた父はすでに仕事へ出た後だった。近年急速に発展している観光業に転職していた事は定期的に届くメールで知ってはいたが、それもまたコウの胸を圧した。コウの父は元々市場で働いていた。コウが小さい頃は、よく母と手を繋いで市場に父を迎えに行っていた。あの市場の賑わいの中を父を探し歩く時間がコウは好きだった。  深い吐息を吐きながらかつて暮らした懐かしい我が家を眺めてみる。微かな面影はあるが、やはり時の流れが無情にも大切な記憶を消し去ってゆく。  母が突然死んでから、まるでコウは胸が押し潰されるような不快な痛みを感じていた。二度とは戻らない、全て。未来を見詰めて歩く勇気が、今はなかった。  日没まではまだ長い。コウは思い立って家を出た。研究所のある西海岸の反対側、東海岸までは、サンクチュアリとして観光客の立ち入りを禁止している島民の居住区から歩いて三十分ほど。空港から家までの車中あまり外を見ていなかったが、東海岸に向かうにつれて辺りの様子は様変わりしていった。あからさまな土産物屋には多国語の看板が客を出迎えており、飲食店が随分と増えた。通りには他国からやってきた人々が人波を作っている。軒先をぼんやりと歩くコウに、中国語で声を掛けてくる店主。自慢の工芸品を手に近付く老婆。七年前は見る事のなかった顔付きに、目頭が熱くなる。  観光客向けの大通りをずっと行くとホテルに辿り着いた。今では行事以外では誰も着ていない民族衣装に身を包んだ父が炎天下の車止めに佇んでいる。焼けた顔は、直ぐにコウを見付けてくしゃりと破顔した。 「コウ、どうした。博士たちには会えたのか」  ちいさく頷くコウの髪を、父の荒れた手が優しく撫でる。 「帰ったらたくさん話をしようね。お父さんはまだお仕事だから、気を付けてお帰り」  余計な優しさが滲み出す、まるで幼児への言葉。コウはまた頷くと、来た道を素直に引き返す。気を抜けば、止め処ない涙が溢れてしまいそうだった。  この島が観光に力を入れ始めたのは、数年前のことだそうだ。四方を囲む美しい海は長い時を経て形造られたラグーンがある。あまい空色のラグーンと、コバルトブルーの外海。豊かな珊瑚の森に、豊富なプランクトンを求め外海からも生物が訪れる。そうして生き物たちが鮮やかで豊かな生態系を築いているのだ。またシロナガスクジラがこの海の沖を長年繁殖地として使っている。それ故に、この国にはそう言った人の手の入っていない自然や、美しいバリアリーフ、クジラやイルカを見に多くの観光客が訪れる。その数は年々増え、海洋汚染も問題になっているとは、日本にいる時に故郷の事が気になって調べていた。  かつては地元民だけが細々と暮らしていた島。決して裕福ではなかったけれど、夜は深く、波が歌う音がそっと寄り添っていた。まだこの国に帰ってきてたった一日も経っていないのに、コウの胸には早くも重い喪失感だけが低い唸り声を上げていた。
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