海の唄

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 帰国した次の日も、コウは仕事に出る父を見送るとすぐに研究所へ向かった。その日は桟橋に双眼鏡を手にしたマリアの姿があった。 「おはよう、何をしているの」  沖を見つめる背中に声を掛けると、赤毛を翻しマリアは驚いたように振り返った。 「おはよう、コウ」  優しい笑みに促され、コウもまた微笑んで見せる。しかし再び沖へと視線を馳せ、マリアは深いため息を吐いた。 「最近、クジラたちが外海からラグーンへ来る事があるの。シロナガスクジラは繁殖期以外基本的に群れで行動しないはずなのだけど……。まだ繁殖期には早いし、そもそも何故繁殖期の前にここに来るのか分からないの」 「ラグーンに来たら、大変だよね」 「そう、だから最近よく打ち上げられるのよ。まだ餌場の移動にも早いし、それに、あの歌────」  そこで言葉を途切れさせたマリアの横顔は、ひどく悲しみを帯びているように見え、なんと声をかけていいかわからなかった。  不意にマリアは黙り込むコウを振り返る。 「海に入らないの」  再びなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いて見せる。マリアの萎びた手が、そっとコウの肩を抱いた。 「我慢しなくていいのよ、ここでは」 「我慢なんて、していないよ」  否定しながらもまた胸が圧される。  日本に住む母方の祖父母には、母の死後父の元へ行く決意を告げた時に、猛反対にあった。元々母と外国人である父の結婚には反対だったとも聞かされた。コウは父も、母も、同じくらいに愛していたし、父を悪く思った事はなかった。母の死に追い討ちをかけ、それがとても辛かった。だからこそ父の助力も得て祖父母の反対を押し切りこの国に来たのだ。元々この国で生まれたのだから言語も国籍も壁はなかった。けれど、街を歩いてみて知った。この国の人にとって自分がよそ者である事。それでもここに来た事を後悔はしていない。ただ、息が苦しい。  不意にとんとん、と木板のデッキを軽やかに踏む音が後方から近付き、コウは思考の海から顔を上げた。振り向くと、ローアがデッキを駆けてくる。まだぼんやりとした頭で、コウはただその姿を追う。 「あっ」  思わず声が漏れた。二人が佇む桟橋の突端まで辿り着くや、なんの躊躇もなく、美しい放物線を描き吸い込まれるようにその姿は海へと消えた。ラグーンの空色の中を肩口まで伸びた細い金色の髪が踊るように遠のいてゆく。コウも泳ぎには自信があったが、彼はその比ではない。フィンも履いていないのに、瞬く間に珊瑚の森の中へと消えてしまった。 「ローアは不思議な子なの」  その姿が消えた先を見詰め、マリアがぽつりと呟く。 「彼はクジラを呼ぶのよ」 「クジラを」  思わず聞き返す。人が餌付けしていない野生のクジラを呼ぶなんて聞いたこともない。 「そう、ローアが海に入ると、クジラが歌い出すの。長く研究しているけれど、聞いた事もない歌。まるで、彼を呼んでいるみたい────」  熱い風が頰を打つ。マリアの言葉の意味を探そうとすればする程、真意が遠のいてゆく気がする。 「冗談よ。偶然だわ」  マリアはそう言って笑った。コウは愛想笑いで答えながら、瞳は海面を彷徨う。  彼が海に入ってから既に何分が経っただろう。一向に浮いてこない。シュノーケルもしていなかったし、何処か見えないところで息継ぎをしたのだろうか。だが、コウは広く海を見張っていたはずだ。  二人が黙り込んだまま海を眺めていると、桟橋の近くに泡が浮いた。次いで小さな頭が海面に姿を現す。漸く見付けたローアは、息一つ上がっていない。そのまま桟橋の端にかけられた古い梯子を小さな身体が軽やかに上がってくる。コウは驚きに目を瞬かせながら、微かな喜びを胸に感じた。 「泳ぎが上手なんだね。イルカみたいだった。何分息を止めていられるの」  思わず問い掛ける。しかしローアはその幼さからは掛け離れた、まるで情事の後のような気怠げな様子で濡れた髪をかきあげ、ちらとコウに視線を流した。薄いまぶたに半分覆われた瞳は、ラグーンのあまい色ではなく、外海のような鮮やかで冷えた美しいコバルトブルー。その中に水泡に似た煌めきが沈んでいて、やはり呑まれる程に美しい。けれどコウで一瞬留まった瞳はすぐに桟橋へと落ちた。そのままローアは口を開くことなく、とんとん、と木板を鳴らして去ってしまった。  痩せた背中を見送り、コウは沖を見詰めるマリアを仰ぐ。 「彼は口が聞けないの」 「そうみたい。よく分からないけれど」  そう言ってふと、マリアはローアの背中を振り返った。 「ここに連れてきたのも療養なのじゃないかしら」  海は、自然は、時に人の心を癒してくれる。優しく包み込み、傷口をそっと舐めてくれる。それはコウもよく知っている。あのイルカのような不思議な少年もまた、深い心の傷を抱えているのかと思うと、コウはますますあの瞳に宿る海に引き寄せられてゆく気がした。
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