海の唄

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 マリアが研究所に戻ってから、コウは砂浜に座り込んで海を見詰めていた。穏やかに寄せては返す波は、いつまで見ていても見飽きない。このまま、この身体ごと海に溶け出してしまいたい。そう思っても、叶わない。マリアが気を遣ってマスクを手渡してくれたことだし、海に入ってみようか。だがやはり、その気になれない。  考えてはやめ、また考える。それを繰り返しているうち、ふとコウは人の気配を感じ振り返る。白い砂浜を、ローアがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。まだ濡れた髪は潮風に煽られ、微かに揺れている。 「ローア」  思わず声を掛けると、ローアはコウで視線を止めた。 「また海へ行くの」  その問いに返事はない。けれど、彼は真っ直ぐにコウを見詰めている。何を伝えたいのか、その瞳の奥底を覗き込んではみたが、彼の瞳はやはり海と同じ。何も教えてはくれず、何も与えてはくれない。けれど、涙が溢れそうになる。  ふ、と視線を逸らし、ローアは海に向かい歩き出した。また泳ぎに行くのだろうか。そう感じ、コウは反射的に立ち上がっていた。 「まって」  咄嗟に声を掛ける。ローアはちらと横目でコウを見やり、すぐさま波に足を浸した。慌てて追い掛けながら、コウの胸にちらちらと熱が燃える。腰まで浸かる所までゆくと、ローアは徐に海の中へと消えた。真似るように飛び込み、コウは思わず軽く海水を呑んだ。海は慣れたものだと思っていたのに、ローアを見失わまいと逸る気持ちが冷静さを奪ってゆく。それと共に、世界の騒めきが一瞬にして消え、自分の身体の奥底の音だけが深いところから響いてくる感覚を思い出す。漸く海に抱かれたのかと思うと、胸に燃えた柔らかな焔がより赤々と揺らぐ。  呑み込んだ海水を吐きに一度海面に顔を出し、深い息継ぎをして、今度は心を鎮め再びコウは頭から海に潜り夢中でローアを追いかけた。やはり速いが、見失う程ではない。それとも、コウに合わせてくれているのだろうか。  珊瑚の死骸が堆積した真っ白な砂地は、深度が深くなるにつれて姿を変える。沢山の生き物を抱く珊瑚たちが白い砂地との境界線を鮮やかに描く。コウが強く水を蹴るたびに色彩豊かな魚の群れが突然現れた人間を前に散ってゆく。広大なイソギンチャク畑にはクマノミたちが、ハードコーラルにはちいさなスズメダイの仲間や目を凝らさなければ見えない甲殻類が、かつてコウが見たまま、そこで生きていた。限りなく青く澄んだ世界に強い陽光が差込み、波の揺らぎにゆらゆらと煌きを放ち、懐かしさに思わず鼻先が苦くなる。こんなにも変わり果てた世界で、海は何も変わっていない。あの頃のまま、コウを優しく包み込んでくれる。  感傷に浸るコウの先、ローアは輝く珊瑚の森をしなやかに下肢をしならせ泳いでゆく。右へ、左へ、目的もなく、時折くるりと回って見せて、まるでローアの周りを泳ぐ魚たちと遊ぶように。その姿は若いイルカと同じ、美しく輝いている。だが、幾ら泳ぎが上手いとはいえ、これ程までに自由に泳げるものなのだろうか。それどころか既に数度息継ぎをしたコウと違い、一度も海面に顔を出していない。何より、彼はコウと違いマスクをしていないのだ。それなのに、まるで陸上と同じように感じる程自在に珊瑚の森を抜けてゆく。一体、彼は何者なのだろう────。  そう思った時だった。ラグーンの遥か向こう。外海から、突然轟いたもの。それは幼い頃ロブに聞かせてもらったクジラの声だった。低く伸びてくるその音は鼓膜を震わせ、その震えは全身へと拡がってゆく。地の底からゆっくりと忍び寄るような、深淵の唄声。コウは思わず泳ぐのをやめた。これは一頭のものではない。マリアは冗談だと言ったけれど、あながちそうでもないような気さえしてくる。ふと気付けばローアもまたそこにたたずみ、クジラの声に聴き入っているようだ。水の中でも喋れたら良かった。コウは強くそう思うほど、知りたくてたまらなかった。クジラは何を言っているのか。ローアは、今何を思っているのか。  無意識に手を伸ばそうとした所で、コウは息苦しさを覚えた。人間は水中で呼吸する事ができない。そんな事すら忘れる時間は、ほんの一瞬だったに違いない。けれど、まるで悠久の時の中を泳いだような気がした。  空気を求め海面へと向かうコウを、不意にローアは振り返った。深い海の色をした瞳は、真っ直ぐにコウを見詰める。深度を深く取りマイナス浮力が働いた瞬間の、あの感覚。深い深い海の底へと音もなく堕ちてゆく、説明のできないあの快感。  本能が叫ぶ。誘われている。命の、その先へ────。  勢いよく海面に顔を出し、コウは必死で澄んだ空気を吸った。流れ落ちた潮水が口に入り、余計に息苦しさを覚える。本能的な荒い呼吸を繰り返しながら、コウの瞳から涙があとからあとから零れ落ちてくる。その理由に、気付かないフリをした。
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