海の唄

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 苦い海中散歩を終え、コウは海から上がり砂浜に足を落とした。ローアはまだ、クジラの唄を聴いているのだろうか。  ふと上げた視線の先、ロブがこちらを見詰めている。 「泳いでいたのか」  どこか気恥ずかしくなって、コウは俯いたまま不器用に笑って見せる。 「たくさんのクジラが歌っていたよ」 「ローアは」 「分からない。まだ海の中だと思う」  白んだ瞳がゆっくりと沖へ向かう。コウもまたその先を追いかけ、海中の記憶を思い起こす。 「ローアはイルカみたいだ。凄く綺麗だった」  ロブは満足そうに頷き、濡れた肩を優しく抱いた。 「明日、久しぶりに外海に出てみるかい」  その問いに、コウは嬉しくなって元気よく頷いた。  外海は鮮やかなラグーンとはまるで違う。ラグーンの端の珊瑚からは急激に深くなる。その先は更にドロップオフになっていて、その深さは500mにもなる。そしてその傾斜は2000mの深海に繋がっている。勿論実物を見た事はないが、ロブは人間が到達できない深海についても詳しくコウに教えてくれた。人の目では感知することの出来ない、暗黒の海。恐怖と共に当時コウの胸に芽生えたものは、はげしい焦燥だった。知りたい、見てみたい、人間には許されない、その世界を。海の生き物として生まれなかった事を初めて恨んだのも、その時が初めてだった。  明日船に乗る約束をして、コウは家へと帰った。今日は様々な事があった。何かが変わる気がして避けていた海に遂に身を委ねた事、変わらぬ美しい生命の煌めき、そして────拒絶されるコウと違い、溶け合うことを許されたあの少年。  ローアのしなやかな動きを思い出していると、不意に建て付けの悪い扉が軋んだ音をたてて開き、コウは反射的に立ち上がり扉の方へ素早く顔を向けた。仕事から帰宅した父は、コウの姿を見付けるととても嬉しそうに頬を緩める。 「ただいま」 「おかえりなさい」  抱き寄せられた身体は、痩せた胸にぶつかった。人の体温は思うよりも熱い事を思い出し、コウもまた父の背に腕を回す。 「髪から海の匂いがする」 「今日はラグーンで泳いだんだ。クジラの歌を聴いたよ」  父は身体を離すとコウを先程まで座っていた椅子に座らせ、自らもその横に腰を下ろした。握られた手は、やはり熱い。父は昔からいつもコウの話しを全身で聞こうとしてくれる。陽に焼けた頬を弛ませて、この島の人と同じ、大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見詰めて。父は優しい人だった。優しすぎたのだと、生前母はよく言っていたが、コウにはまだその真意がよく分からなかった。けれど、そんな父がコウは好きだった。 「ロブの孫が来ているんだよ。イルカみたいに泳ぐんだ」  海の中の変わらない美しさや、全身に響いたクジラの声、そしてローアの事にまで話しが及ぶと、父はふと表情を曇らせた。 「ウィリアムズ博士に孫……」  どうしたの、と問うコウの手を離し、父は携帯を触り出す。しばらくすると、やはりそうだと一人納得し、コウに向き直る。 「彼に孫はいないはずだよ。子供がいないから」  ロブ────ロビンソン・ウィリアムズ博士は、世界的に有名な海洋生物の研究者である。研究に没頭するあまり、生涯を誰と歩む事はなかった。いや、彼は海と、クジラたちと長い人生共に生きる事を選んだのだ。 「何か事情があるのかもしれないね。あまり深く聞いて傷付けてしまわないように、気を付けよう」  父はそう言ってコウの髪を撫で、夕食を作る為か席を立った。コウは一人、椅子に腰を落としたまま思考だけを浮遊させる。  そんな気はしていたのだ。ロブに妻がいた事も聞いていなかったから。だがロブがそうだというのなら、ローアはロブの愛する孫なのだ。それはそれでいい。だがやはり彼は今の自分と似た境遇なのだと感じる。どれだけ大きな喪失をその胸に抱き、海へ向かうのだろう。そう感じた途端、あの金色の髪をした少年の事を、より愛おしく感じた。
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