海の唄

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 次の日、約束通りコウは父を見送ってから家を出て研究所に向かった。今日も今日とて、風は優しく海は凪いでいる。南国らしくスコールはあるものの、年間降雨量の少ないこの島は、いつでも広い空が広がり海を染めている。日本の狭い空を見るたびに、コウはこの国を思い出していた。  健やかな気持ちで辿り着いた桟橋では、既に研究員たちがボートに乗り込む所だった。コウを待っていたのか、マリアがすぐに右手を大きく振る。 「コウ、待っていたわ」  答えるように右手を振り走り寄るコウの肩を抱き、マリアは腰をかがめて頬を寄せる。四十絡みの彼女からは、化粧の匂いがしない。 「丁度シロナガスクジラが沖にいるの。それも、大きな群れよ」 「本当、楽しみ」  これまで存在したどんな生物よりも大きい生き物、それが群れているなんて、コウはこれまで見たことがなかった。繁殖期以外単独で行動し、出産はこの地を離れて行なうからと言う理由の他に、この海洋保護区域で繁殖期のシロナガスクジラにみだりに近付くことは基本的には許されない。それはロブが決めた事だった。どんな生き物も、妊娠中はナーバスになる。近年増加傾向にあるとは言え、シロナガスクジラはかつての人間の乱獲により絶滅が危惧されている種。研究だとしても、生き物を刺激しないよう細心の注意を払い短時間で済ましている。そんなロブが、コウは好きだった。  胸を躍らせマリアと共にボートに乗り込むと、船首の柵に身体を預け、ローアはじっと優しく揺れる水面を見詰めていた。 「ローア、おはよう」  横目でちらりとコウを振り返り、深い海の色をした瞳は再び水面へと戻ってしまう。柵の上に組んだ腕に細い顎を乗せ、どこか憂いているかのようなその横顔を潮風が踊らせた金色の髪が撫でてゆく。 「コウ、デッキにいるならこれを着て」  マリアはそう言うと、オレンジ色のライフジャケットをコウに着せた。近年着用が義務付けられたらしいが、何故かローアは着ていない。コウが不思議に思っているうちにボートはエンジンを吹かし出航した。  調査船と言うには小さなボートはラグーンの珊瑚を傷付けないようにゆっくりと進む。すり鉢型のラグーンの壁が一番低い位置を越えると、周囲の色彩はがらりと変わる。甘い色の海は、深い深い青に染まり、ボートがスピードを上げると飛沫が白く濁って跳ね上がる。風を切りながら進む船首は彼の特等席なのか。ローアは変わらずじっと海面を見詰めている。靡く髪が、遮るもののない太陽のしたで煌めいて見える。  ボートは四十分程進んだところで漸くとまった。この辺りには小さな島もなく、陸は遠く海鳥の姿もない。デッキから海面を覗き込むと、ただただ青く澄んだ海だけが拡がっている。どうやらここは随分と深いようだ。  コウが穏やかな水面から目を離した時だった。突然、ボートのほど近い場所で大きな音と共に水柱が吹き上がった。その高さはゆうに八メートルはあるだろうか。コウは思わず口を開けその白い水柱の行方を追う。クジラだ。しかも、これはシロナガスクジラだ────。そう思った瞬間、次から次へとクジラたちはブローを始めた。その音は耳を塞ぎたくなる程のもので、けれどコウはこんなにも間近で何頭ものシロナガスクジラを見るのは初めてだった。一瞬にして頭に血が上り、慌ててデッキの柵から身を乗り出す。 「コウ、気をつけて」  丁度船室から出てきたのか、背後からマリアにそう声を掛けられても、コウは夢中でクジラの姿を探した。ブローは呼吸と同じ。シロナガスクジラは五十分も潜水していられると聞いた事もあるし、そう何度も出てはこないだろう。だが、まだ息継ぎをしていない個体もいるかもしれない。  生返事を返しながら夢中で海面に視線を走らせていると、船室から飛び出した研究員が慌てた様子でマリアを呼んだ。 「マリア、来てくれ」  分かった、と返し、再びマリアはコウを振り返る。 「あまり柵から身を乗り出さないでね」  マリアがそれだけ言って船室に戻ろうとした時だった。船首でぼんやりと海面を眺めていたローアが、突然海へと飛び込んだのだ。 「ローア!」  驚いて叫ぶが、すでにその姿は深い海の中へと消えてしまった。 「まって……!」  コウは慌てて持ってきていたマスクをつけ、ライフジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま海に飛び込もうとしたものの、マリアの腕がそれを止めた。 「ダメよコウ!」 「どうして」 「ここはドロップオフに沿ってダウンカレントもあるし、深度を少し落とすと潮流が速いの。もしもの事があったらどうするの」 「でも、ローアは……」  マリアは厳しい瞳で、ゆっくりと首を横に振った。 「あの子は特別なの。あなたはダメ」  マリアは知っているのだろうか。あの少年の正体を。
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