海の唄

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 思考が追い付くより先に、身体は細い柵を乗り越え船を囲むしろいその鉄枠を蹴っていた。背後で悲鳴のように叫ばれた自身の名は、はげしい入水音に掻き消され。今はとにかく、息が続く限り。そう思って周囲にぐるりと視線を走らせたが、まるでコウが追ってくる事を知っていたかのように、ローアは頼るものの何もない水中で佇んでいた。じっとこちらを見詰める瞳は、海と溶け合うようにして微かな光を放っている。やはり彼は器具なくして陸と同じようにものを見る事ができるのだと、コウは漠然と感じた。  ローアは自分を待っているのだと察し、コウは息を整える為一度海面に浮上した。すぐさまデッキからマリアの悲鳴が聞こえる。 「コウ、お願いだからこれに掴まって!」  ロープの付いた浮き輪は、少し離れた所に投げ入れられた。ロブまでも船室から出て、柵から老躯を乗り出してコウの名を呼んでいる。素直に戻るべきだ、それは痛い程に分かっていた。しかしなぜ、誰もローアの心配をしないのだろうか。その違和感は、よりコウを海の底へと引き摺り込む。 「ごめんなさい」  そう囁いて、ゆっくり深く肺いっぱいに空気を吸い込むと、コウは頭から海に潜り込み力いっぱい水面を蹴った。真っ逆さまに海の底へと沈んでゆくコウの眼前に、ラグーンとはまるで違う景色が拡がる。生き物の姿は薄く、悠々と泳ぐ青魚の群れが人間の姿に驚き去ってゆくばかり。ただただ、震えるほどの澄み切った真っ青な世界。このまま呑み込まれてしまいそうだ。ローアはまるでコウを誘なうかのように、こちらを真っ直ぐ見詰めたままゆっくりと堕ちてゆく。手を伸ばせば触れられそうなのに、強く水をかけば追付そうなのに、それが叶わない。  そして高い透明度が水深四十メートル程にあるドロップオフの姿をローアの遥か後方に微かに見せた瞬間の事だった。不意にローアの背後から黒い影が浮かび上がった。驚きに目を見開き、危うく肺に貯めた空気を吐き出してしまいそうになる。おおきい、二十メートルはあるだろうか。音もなく悠然とドロップオフの先に続く深海から現れたクジラは、ローアの側で動きを止めた。そして驚く事に、次から次へとクジラたちが深い海の底からローアの元へと集まり始めたのだ。水中は、全身が震えるほどのクジラたちの声で満ちた。一体何が起きているのか、ローアを中心に巨大なシロナガスクジラが四頭、いやまだいるかもしれない。けれどその巨体はこの広い海を一瞬にして埋め尽くしてしまった。コウを伺うようにゆっくりと忍び寄るクジラたち。深度を落とすにつれ、水温も低くなってゆく。今どのくらい深く潜ったのだろう。帰るまで息は持つのだろうか。ふとコウは身体が震えていることに気付いた。目の前に拡がる自然の大きさに恐怖を覚えたのだ。はっきりとそう自覚した瞬間、突然身体が思いもよらぬ力に引き寄せられ、深い海の底へと吸い込まれてゆく。それがダウンカレントだと気付くまでに一瞬の間を要したが、コウは半ばパニックになり肺に溜めた空気を吐き出してしまった。慌てて頭を上に戻してはみたが、遥か頭上の太陽は遠く、波に揺れ霞んでいる。相変わらず歌い続けるクジラたち、そして、恐ろしくなって見下ろした先。深い深い海を宿した瞳が、静かにコウを見詰めていた。問われている心地がした。このまま本能に身を任せ空気を求めるか、それとも、見ないフリをした欲望のまま、堕ちてゆきたいか。  気付けば、無我夢中で水面を目指していた。苦しい、苦しい、苦しい、怖い────。だがもがいてももがいても深淵へと引き摺り込まれてゆく。父の顔が脳裏に浮かび、次いでロブが、マリアが、コウを生に縛り付ける。戻らなくては、なんとしても。けれど、もう息が持たない。進むこともできない。未だ微かに燃えるちいさな命が海に抱かれ、冷たくなってゆく。焦れば焦るほど水を呑み、体内の空気は失せた。次第に意識は遠退き、コウは静かに深い海の底へと墜ちてゆく。クジラたちが、遥か遠くで唄う声を聴きながら。思考が途切れる刹那、コウは確かに感じた。  心はこれを求めていたはずだ。海へと還る為にこの国に来たのだ、と。
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