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海の唄
世界は突然に色を亡くす。悠然と手を広げていた未来が、目にも留まらぬ速さで過去に追い越され、散り散りになってしまう。棺の中で眠る母の顔は、死化粧がよく映える薄い顔をしていた。その死相を思い出し、機内の窓から雲海を眺めため息を吐く。涙はもう出ないけれど、現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。
長いフライトを終え入国審査をパスし、少ない手荷物を受け取り到着ロビーに足を踏み出す。最後にここを訪れた時の記憶通り、小さな空港だ。
「コウ」
不意に名を呼ばれ、低い天井に伸びていた視線を落とす。どこか懐かしい顔が、歪な顔付きで立っていた。
「久しぶり、父さん」
そう声を掛けると、大きな瞳からは涙が溢れた。慌ててそれを拭う父を見て、コウはそっと視線を逸らす。人の涙は嫌いだ。決して溶け合う事のない心が、その瞬間だけは触れてしまう気がして。
父に連れられロビーを抜け、外に出た途端熱風がふわりと頬を撫でた。まるで子供の落書きのように能天気な青空は、真っ白な入道雲を抱いてコウを見下ろしている。
「覚えているか。ここは変わらないだろう」
ぎこちなく笑む父の顔は、記憶よりも随分と黒くなった。潮に当てられ皮膚は爛れ、彼が言葉を探すたび皺が緩やかに躍動している。
「覚えているよ」
コウはそう言って、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。
母が死んだ。突然だった。三ヶ月に及ぶ話し合いの末に、コウは七年前に別れた父に引き取られることになった。八歳まで過ごしたこの地は、日本から遠く離れた国。四方を海に囲まれている所だけは同じだが、それだけだ。だが、この国には透き通る美しい海があった。数えきれぬ海洋生物がその美しい海で暮らしていた。
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