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「帰りましょう、神月さん」
手を差し伸べる神崎に、神月は静かにゆるりと首を横に振る。
「それは無理だ」
声を詰まらせる神崎を見て、神月が白い鬼面の向こうで悲しそうに微笑んだ気がした。
「神崎、僕の人としての身体は、すでに朽ちている」
薄々察してはいた。
鬼堕ち化した人間を救う術はない。
呪いの元凶である鬼面を破壊することで、取り憑かれた人間を解放するしかない。
この場合、解放するということは、人としての生を終わらせることを意味する。
「だからお願いだ、神崎。僕が僕であるうちに、僕を人として終わらせておくれ」
そんな願い聞きたくない。
たとえ神月の望みであろうと、聞きたくなかった。
「嫌です、俺は……あんたとは、」
言いかけた神崎は、悪寒を覚えて半ば反射的に身をかがめた。
刹那、わずかに逃げ遅れた後ろ髪が数センチ切断される。
あとほんの少しでも反応が遅れていたら、おそらく自分の首が飛んでいたことだろう。
体勢を低くしたまま身構えた神崎が、ハッとして顔を上げた直後、頬にわずかな痛みを伴い真っすぐな赤い線が走る。
いつの間にか神崎の周囲には白い糸が張り巡らされていた。
「【遊技・あやとり】……さぁ、僕と遊んでおくれ。神崎」
神月の言葉に呼応するように、ざわりと靡く白い鬣。
神月は本気だ。
「神月さんっ……!」
それでも神崎は刀を抜けない。
刃を向けることができない。
彼を敵と認識することができない。
「【鬼纏い第二段階・雪鬼】」
***
白い獣が咆哮を上げる。
目の前にいるのはもはやただの白い獣、鬼に堕ちた人間の成れの果て、理性を失った化け物だ、倒すべき鬼なのだ。
覚悟を決めろ。
神月という男はもういない。
あれはもう、神月ではない。
神月では、ないのだと、何度も何度も自分に言い聞かせる。
「【鬼纏い】……【第二段階・炎鬼】」
奥歯を噛み締め涙をこらえ、脳裏をよぎる記憶の中の神月の姿を眼裏に焼き付ける。
神崎は迫りくる鋭いかぎ爪をかわすと、そのまま腕の上を駆け上がり、白い獣の巨体を踏み台にして空へ飛び上がる。
炎の鬣を靡かせて、白い糸の包囲網を身をひねりながら回避し、落下する勢いを乗せて左の太刀を振り下ろす。
「――【遊技・万華鏡】ッ……!」
ダメ押しで右の小太刀を左の太刀の上へ振り下ろす。
赤い炎を纏う二振りの刃が、白獣の四本の角を折るとともに、白い鬼面を砕いた。
剥がれ落ちた鬼面の下、ひび割れた白い肌と露わになった紅の瞳が、神崎をとらえると、そっと細められた。
「君の勝ちだよ、神崎――ありがとう」
穏やかな笑みを最後に、神崎の目の前で、神月の姿が崩れていく。
――いま、逝くよ
後に残った鬼の残骸と人骨を前に、神崎はついに堪え切れず手にした刀を取り落とす。
「こんな形で、あんたに勝ちたかったわけじゃないっ……」
震える声で吐き出した言葉とともに、崩れ落ちるように雪原に膝をついた。
そのすぐ傍に、二つの壊れた六花の欠片を見つけた神崎は、縋るようにそれを拾い上げ握りしめる。
「神月さん……」
零れ落ちた涙が頬を濡らす。
神崎は真っ白な空を仰いで慟哭した。
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